断食芸人の系譜 ポール・オースター『偶然の音楽』

 30年以上音信不通だった父親が亡くなり、ナッシュに20万ドルという遺産が転がり込んできた。妻に去られたばかりで、2歳の娘を姉夫婦に預けていたナッシュは、新車を買い、アメリカ全土をひたすら走り回るだけの旅に出た。その時のことをすべてはタイミングの問題だった、もし遺産が手に入るのがもう少し早ければ妻と別れずにすんだだろうし、娘と3人で暮らしているはずだったとナッシュは回想している。しかし、それが常軌を逸した行動であることは変わりない。一年以上、彼はひたすら車を走らせた。金の残りが2万ドルを切ったとき、ポーカー賭博師ジャック・ポッティという若者に出会う。ナッシュが金を提供してニューヨークの富豪と勝負し一財産作るという計画を立てるが…。
 破滅の匂いがプンプンする物語。予想通りというか、ナッシュとポッティは富豪との勝負に負け、多額の借金を支払う代わりに富豪の敷地内に石の壁を築くという奇妙な仕事に従事させられることになる。物語の始まりから衝撃的な結末まで、理不尽なほどの孤独と絶望に満ちている。いったい何がナッシュを破滅的な行動に駆り立てたのか。遺産が転がり込んだ、すべてはタイミングの問題だったというナッシュ。彼は次のようにポッティに言う。
「(…)お前はつまり、何か隠された目的ってものを信じたがっている。この世に起きることにはちゃんと理由があるはずだって信じ込もうとしている。神、運、調和、何て呼ぼうとおんなじさ。そんなのは事実を避けるための寝言さ。」
 ナッシュに言わせれば、この世はすべて偶然の連続でできていることになる。目的とか理由なんてものはなく、神も運命も物事を都合よく理解するための物語化にすぎない。すべては無意味だということだ。それで思い出すのは、ナッシュが「間抜けな奴」と思っている姉の夫のことだ。「元フットボール選手で、現在は高校のコーチ兼数学教師」「子供の扱いが上手」で「よきパパ、気は優しくて力持ち」彼の家庭は「岩のようにしっかりしている」
ナッシュとは好対照の人物である義兄は、意味ある世界に生き、自分という存在に疑問を持つこともない。
 カフカに「断食芸人」という短編がある。断食芸人はサーカスの片隅で何日間も何も食べないという芸を見せる。その芸人が死ぬ間際、断食芸の理由を次のように話す。「わたしはうまいと思う食物を見つけることができなかったからだ。もし好きな食物を見つけていたら、きっと世間を騒がせたりしなりで、あんたやみなの衆と同じように、たらふく食って暮らしたにちがいないのだ」(円子修平訳)
 ポール・オースターはこの世から自分の存在をきれいに消し去ってしまいたいという欲望を持つ主人公をくり返し描いてきた。「望みのないものにしか興味がもてなくてね」と冗談めかしていうナッシュは明らかにカフカの断食芸人の系譜につらなる人物である。