「解せぬ気分」とは何か 阿部和重『グランド・フィナーレ』

 阿部和重の「グランド・フィナーレ」は、どうもよくわからない小説だ。ざっと、あらすじを紹介しよう。ロリコンの中年男が自分のデジカメに保存していた7歳の娘のヌード写真を妻に見つかり、離婚。田舎に引っ込んだ男は、母親がやっている小学生相手の文具店で店番をすることに。そこで店にやって来た小学生の女の子二人と知り合いになる。町の文化祭で演劇をやるという二人は、かつて教育映画の製作に携わっていた男に演出を頼み、男は重い腰を上げる。演劇の演出にかかわるうち、少女二人が自殺を計画しているらしいことを知った男は、彼女たちを救おうと尽力する…
 こんな風にあらすじを書いてみても、最初に読んだとき受けた違和感は変わらない。ロリコンの中年男も、ボランティアで小学生の面倒を見る男もきっとそんなにめずらしい存在ではないだろう。しかし、この小説のように両者に緊密なつながりがないまま、同一人物がその役割を担っているという事実をどう理解したらいいのかわからないのである。この小説には、読者の「期待」に応えようとする「意志」が感じられない。
 ターニング・ポイントは、二度あったと思う。一つは離婚後。もう一つは、二人の少女との出会い。前者は、転落、あるいは、断罪の、後者は再犯の機会である。阿部和重はそのどちらもスルーする。それは、ロリコンという「罪」をスルーするに等しい。阿部和重は、こうした「スルー」をあえてすることで、何を描こうとしたのだろうか。
「断罪」と言えば、離婚して一年後、娘の「ちーちゃん」会いたさに上京した男は、結局会えなかったばかりか、離婚の真相を知った知り合いの女性から彼の犯したことについて「訊問」される場面がある。そのとき男が感じるのが「解せない気分」だ。その違和感は、知り合いの女の検察官のような態度にも、自分の過去を他人事のようにすらすらと話す自分にも向けられていた。おかしなことに(と言っていいのかどうかもわからないが)「違和感」を感じているのは、読者だけではないようだ。
 こうした「違和感」の由来するところに対する違和感、なんて言うと禅問答のようでいやになるが、「グランド・フィナーレ」は、作中人物と読者がたがいに「なんだかヘンだ」と言い合う小説だ。
 
 阿部和重は、『シンセミア』『ニッポニア・ニッポン』などとともに「神町サーガ」を構成する本作「グランド・フィナーレ」により2005年の芥川賞を受賞。しかし、大作『シンセミア』(伊藤整文学賞毎日出版文化賞)で作家としての地位を築いた後でもあり、違和感大ありの芥川賞だった(村上春樹のときのような取りこぼしを恐れた?)。