「うそ」が支える日常 荻野アンナ『背負い水』

 荻野アンナの短編集『背負い水』。ずいぶん前、古本屋で買って、すぐ読まずに置いてあった文庫本(そんな本がうちには山ほどある)。1991年に芥川賞を受賞した表題作のほか、収録された三篇は、どれもフィクションというか、「うそ」を主題化した小説だ。「背負い水」は、30代(?)女性の、3人の男との恋愛の話。「真っ赤な嘘というけれど。嘘に色があるならば、薔薇色の嘘をつきたいと思う」という女は、デートの相手に同棲している男を女だと嘘をつき、うちへ帰ってくると、同棲相手にはデートを女友達との外出だったかのように話す。ところが、同棲相手に女がいるらしいとわかって、彼女は「真相」をつきとめようとするが…。
「背負い水」は「うそ」だらけの小説であり、はじめから「ごめんね、うそだから」と言ってるわけで、作中人物も読者もいわゆる「真実」にたどり着くことはないし、荻野アンナもそんなものには、どうも興味がなさそうなのだ。
「四コマ笑劇『百五十円×2』」では、エア婚約者のいる女が、アイスクリームを食べながら、「彼」の話をする。
「今のところ『婚約者』の話をする時が一番楽しい。市場で買物をしていて『奥さん』と呼びかけられても、今までのように引きつらずに笑って答えられるようになった。わたしは今、とても元気だ」
 いる、ぼくの友だちでこんな女の人ほんとにいる。彼女は結婚と離婚をくりかえし、最近、あるフリーキャスターのと3度目の結婚をした(「エア」ね、念のため)。
 ぼくたちは物事を「物語」という形でしか理解できない。世の中は「物語」であふれている。それも、うんと通俗的なやつが。物語は現実を理解するのに役に立つ反面、現実の多くの側面を見えにくくする効果もある。
「あばたもえくぼ」というが、それは解釈であり、結局のところ、何を信じるかということだ。何を信じるかは人の自由だが、マスコミと政治家が協力して作っているつまらない「物語」を事実だと思い込むことによる代償は大きい。それなら、とことん「うそ」と戯れてやれと思う気持ちはよくわかる。「うそ」が、ぼくらの日常を支えている。エア婚約者がいて「わたしは今、とても元気だ」という女がビョーキなのか健全なのかは、だれにもわからない。