飛躍の瞬間 栗田有起『蟋蟀』

「あああ、もう、たまらないわ。先生。先生。これから連続側転するから、見ててください」(「あほろーとる」)
 栗田有起の小説には飛躍の瞬間がある。
 若くてかわいくて仕事もできる秘書。彼女に恋心を抱く大学の先生がついに食事に誘いだす。これは2軒目のホテルのバーでの出来事。酔ってたとしても、それにしても、連続側転って! とツッコミを入れずにはいられない。彼女はホテルのバーをくるくると回りだす。かわいい。かわいい。これで彼女に恋しない男がいるだろうか。このあまりにも可憐な連続側転に目を奪われ、先生もそしてぼくも大事なことを忘れている。
「液体が好きなんです」「液体状のものを見るとなんだかそこへ飛び込みたくてたまらなくて、むらむらしてしまうんです」「我々は本来水の中で暮らすべきなんです」
 彼女はすでに出会いの日に自分の素性というべきものを、自己紹介のように明かしているのだった。水の中にいるべきものが、今はしかたなく陸の上にいる。そして、彼女はもうそれを知っているのである。ならばもう帰るきっかけを見つけるだけだ。
 
 栗田有起の短編集『蟋蟀』には、表題作「蟋蟀」をはじめ、「サラブレッド」「あほろーとる」「鮫島夫人」「猫語教室」「蛇口」など(最後の「極楽」を除き)動物の名前が入っている。自分や他人の中にいる動物が見える「私」の話「ユニコーン」だけでなく、『蟋蟀』に収録されている短編はどれも人の中に獣を見る、いや、もっと正確を期すなら人というものの広がりを問い直そうとする。その広がりの中に「人」じゃないものがわんさと出てくるということだ。出てくるものが動物とはかぎらない。「サラブレッド」の主人公は他人の手に触れるだけで、その人の現在、過去、未来が見えてしまう。運命は決まっていて、人が生きるとは、その運命の記憶をたどることだと彼女は言う。でも、人は忘れっぽいので、現在にかまけている間に「未来の記憶などすっかり忘れてしまう」。
 つまり、人の中に全部あるということだ。何もかも全部。しかし、それを忘れている。『蟋蟀』に登場する作中人物たちは、大なり小なり自分の中にあるいろいろなものの声に耳を傾けながら、自分の人生を切りひらいていく。それはとても感動的なことだが、内なる声に忠実になるのには覚悟がいる。ときにそれは世間様が眉をひそめるような行為や関係性を生み出すからだ。「鮫島夫人」の「私」と鮫島の関係などはその典型だろう。「私」は鮫島とのことを夫には言っていない。「私と鮫島くんのことは、ふたりだけが了解していれば、それでいいのだ」
 一方で世間様の価値観を全く疑うことなく生きてきた主人公もいる。有数の大企業に勤める夫に複数の女がいても目をつぶり、出世のためにひたすら内助の功を発揮しようとする「私」が描かれる「猫語教室」。抑圧の強い彼女が会社の奥さんたちで作る猫語教室に参加する。それまで敵対関係にあった奥さんたちが猫語を話す。「にゃ、にゃにゃにゃにゃん、うにゃん」女たちは興奮し体をすりよせあう。一見、他の短編同様に飛躍の瞬間が生じたように見えるが、それは一種の疑似体験にすぎず、「私」はただどこにも行きつかない場所に放り出されてしまうだけだ。
 栗田有起のこわさが最も発揮されているのが「極楽」だろう。河童が刑務所で昼も夜もなく固定された自転車のようなものに乗り、ひたすらペダルをこぎ続け発電させられる。終わりの見えない作業の中で人間たちは怒りや苛立ちを隠さないが、河童がそこに喜びを見出している。作業やめ! 号令がかかっても、まだできる! と思う。かわいい。河童にとって、そこは極楽である。発電所にはアアタサマという神様がいらっしゃる。人間はこの河童は頭がおかしくなっていると思うが、信じている物語がちがうだけだ。
「意思あるものはなべてかなしい。おのれの感情や要求や思案のあるものはそれらの奴隷である。奴隷としての生はかなしみそのもの」
 これは河童の仲間のことばだ。ならば、人はかなしみの中に生きることを運命づけられているのである。