犯される女たち 丸谷才一『輝く日の宮』

 『源氏物語』には「輝く日の宮」と題する巻が存在していたと考えた国文学者杉安佐子は、「日本の幽霊」をテーマにしたシンポジウムに参加した際、成行き上、その仮説を披露することに。シンポジウムにたまたま女性源氏学者がいたことから、「輝く日の宮」をめぐって大論争に発展した。その後、安佐子は、水を扱う会社の部長で恋人の長良豊に関係に悩みながらも、彼に励まされ、失われた巻「輝く日の宮」を復元する小説を書くことを決意する。
 なんて長編『輝く日の宮』のあらすじを紹介してみたところで、この仕掛けに満ちた小説の何を語ったことにもならない。小説は安佐子が中学生の時に書いた泉鏡花パスティーシュ風習作から始まる。十五歳の少女が左翼の過激派に属する大学生に呼び出され待ち合わせ場所へ急ぐが、指定場所が二転三転するばかりで、結局は会えずじまい。あきらめてうちに帰ると、その男の幽霊が現れて窓から消える。杉安佐子が少女期に書いた習作は、長編『輝く日の宮』のテーマと展開をダイジェストで見せる予告編のようなものだ。
 『輝く日の宮』のテーマとは「幽霊」「時間」「レイプ」である。この小説の最大の関心事は、いったいなぜ「輝く日の宮」は失われたのか、その謎を明らかにすることだ。鋭い観察力と推理力を見せる安佐子は父親からシャーロック・ホームズみたいだと言われるが、彼女は文学探偵よろしく幻の巻「輝く日の宮」に迫ろうとする。とはいえ、「輝く日の宮」への最初の言及は小説が三分の一も過ぎてから。安佐子の仕事を順を追って見ていこう。
 最初に出てくる安佐子の仕事は「芭蕉はなぜ東北に行ったのか」という学会発表である。松尾芭蕉が『奥の細道』に記した東北の旅が行われたのは、源義経の霊を弔うためだとし、そこに御霊信仰の影響を見ている。非業の死を遂げた者のたたりを鎮めるために行われた古い信仰の形態が、芭蕉の旅の動機だとしたのである。このとき安佐子は「自分の文学の停滞からの脱皮」を旅の動機として位置付けた先行研究を退けている。つまり、近代文学から江戸の風雅へという方向付けが行われた。この学会発表で安佐子は学会の権威里見龍平の意見に逆らい、恥をかかせてしまう。
 安佐子の二つ目の仕事は論文「春水=秋声的時間」である。為永春水の直線的に進むのではない複雑な時間の処理が徳田秋声の『あらくれ』などにおける語り口に似ていることに着想し、影響関係と日本人の伝統的時間感覚を論じたもの。ここでもまた彼女の主題は時間が直線的ではないこと、過去が現在によみがえるという主題の準備運動になっている。この論文は学会誌に掲載され好評を博し、学会の賞を受けることになった。安佐子は自分の論文を読み返し、出来に満足できなかったので、受賞を辞退することも考えた。そのとき「おだやかに賞を受ける」ことを勧めたのは、安佐子の恋人長良だった。一方で、「なぜ芭蕉は東北へ行ったのか」は出版の話が出ては立ち消えになる。どうも里見龍平の圧力があるらしい。ここまで読むと、この小説における男女関係も見えてくる。男の庇護を受けない女は浮かばれないのだ。
 これは一つには、杉安佐子と長良豊の関係が紫式部藤原道長二重写しになっているからである。しかし、ことはそれほど簡単ではない。それが「日本の幽霊」シンポジウムのレイプを連呼する異様な光景に現れている。安佐子が「輝く日の宮」実在説とそれを破棄したのは道長であるという考えを披露した直後、パネリストの源氏学者大河内篤子(実は里見龍平門下)は、唐突に『源氏物語』は「レイプずくし」であると言い出す。王朝貴族の洗練と暴力ずくで女を犯す、その両方が書いてあるせいで「異様に複雑な味があの物語にはある」。安佐子はシンポジウムの基調報告の中で泉鏡花の幽霊について語り、小説家が過去を扱う手段として幽霊話を例に挙げた。長編『輝く日の宮』における幽霊とは失われた巻「輝く日の宮」にほかならない。『源氏物語』が犯される女たちの物語であるなら、杉安佐子もまた犯される女である。安佐子が夢想した紫式部藤原道長の会話の中に、道長が「輝く日の宮」を除いた理由を語る場面がある。
男 「(…)あくまでもあの物語のためを思って取り去つたのだといふこと。その理由は大きく分けると二つありました」
女 「一つには深手を擦り傷に見せかけるために。さらにもう一つは余白の効果によつてかへつて味を濃くし、趣を深めるために……さうでございませう?」
男 「その通りですが、しかし二つ目についてはもうすこし説明が要る。すべてすぐれた典籍が崇められ、讃へられつづけるためには、大きく謎をしつらへて世々の学者たちをいつまでも騒がせなければなりません。惑わせなければならない」
 長編『輝く日の宮』には、まだぼくがちゃんと読めていないところが多くある。文庫本の解説者鹿島茂は、安佐子の短編が「輝く日の宮」が除かれた意味を説明しているというがこれもよくわからないし、なにより「深手を擦り傷に見せかける」という部分がとても気になる。つまり、何か書いていないことがあるということだと思うけど、それが何かは確信が持てない。ただ、シンポジウムの安佐子の発言に次のようなものがあったことが気になる。平安時代において紙は大変貴重なものであり、道長紫式部への紙の提供者であったことを述べたくだり。
「(紙の)真白な空間を前にして長いあひだぼんやりしてゐることがあります。さうしてゐると気が晴れる……こともあります。たいてい何とか気がまぎれて、心が落ちつくやうです。あれはいつでしたか……〔気を取り直して〕私事をつい口にしてしまひました。おゆるし下さい〔頭を下げる〕」
 安佐子はこのとき何を思い浮かべていたのだろうか。
 最後に丸谷才一村上春樹のテーマの驚くほどの類似について指摘しておきたい。『1Q84』と『輝く日の宮』は「犯される女」と「幽霊」という主題において双子と言っていいと思う。