「ひとびとは自分が『自己欺瞞の部屋』のなかにいるのに気附かない」三島由紀夫『仮面の告白』

 自分は女に性的な欲望を感じないという事実に気づいてしまった青年が、その事実を世間にも自分にもそれを認めさせまいとして、鎧にも等しい、きらびやかで過剰な言葉の装飾を身にまとおうとする。装飾であり、鎧でもあるものが、小説そのものになっている。それが三島由紀夫の『仮面の告白』という小説だと、いちおうは言っていいかもしれない。三島自身、次のように書いている。
「私は無益で精巧な一個の逆説だ。この小説はその生理学的な証明である」(河出書房版『仮面の告白』の月報ノート)
 確かに「無益で精巧な逆説」という言葉ほど『仮面の告白』という小説を的確に言い表した言葉はない。三島のきらきらした技巧や露悪的な少年愛の描写に目を奪われてしまうのだけど、『仮面の告白』を読んで、ぼくが感じたのは、三島由紀夫という作家の純粋さ。それは、あまりにも純粋なので、それ自体では存在し得ない。こうして、三島の小説は、過剰に装飾的、技巧的になっていく。しかし、ひとたび鎧を脱げば、そこにあるのは、美しいものは美しい、好きなものは好きという純粋さ、あるいは素朴さである。世間はこれを許さない。
 友人宅で、園子が弾いているピアノの音をたまたま耳にしてから、「何かしら私は彼女の秘密を聞き知った者のように」園子を意識するようになる。しかし「私」は彼女に性的欲求を持つことはない。「およそ何らの欲求ももたずに女を愛せるものと私は思っていた。(…)私は真正直に額面どおりに純粋にそれを信じていたのである」
 これが「人間の歴史はじまって以来もっとも無謀な企て」であるのは、人がこれに反対するからではなく、これが信じられないからだ。

「お兄ちゃま誰かにお熱なんでしょう」
 私の部屋へ入ってきた十七の跳ね返りの妹が言った。
「誰がそんなこと言った」
「ちゃんとわかるのよ」
「好きになっちゃいけないのかい」
「いいえ、いつ結婚なさるの」
 ――私はぎくりとした。お尋ね者が何も知らない人間から偶然犯罪に関わりのある事柄を言い出された気持ちだった。(第三章)

 十七歳の娘でももう恋愛→結婚というストーリーを当たり前だと思っている。そうした無意識の多数派に出会うたび、「私」の「純粋さ」は、犯罪めいた後ろめたさに転落する。犯罪者が世間の目を欺くため擬態するのは当然である。多くの人は、日々受ける「日常」からの侵食によって自分が「自己欺瞞」の部屋にいることさえ忘れてしまう。『仮面の告白』以降の三島の思想遍歴にはさまざまな見方があるだろうが、あんな風に大きな鎧を身に着けざるを得なかったんだろうなと思ってしまう。怖いのは「死」じゃなくて「日常」なんだというのが、三島の告白のような気がしてならない。