「人非人でもいいじゃないの」 太宰治『ヴィヨンの妻』

 表題作「ヴィヨンの妻」をはじめ、「親友交歓」「トカトントン」など太宰治の最晩年(昭和20年から玉川上水に入水自殺する昭和23年までの3年間)に書かれた八篇を収めた短編集。
 学生時代、自尊心が傷つくからAV見ながらオナニーできないという友達が大の太宰ファンだった。ぼくの太宰イメージはこのかつての友人とともにあるのだが、なるほど、この短編集を読んで、太宰の魂はきっとこういう人を惹きつけるのだと納得した。恥ずかしくて生きてられない人、それが太宰治だ。何がそんなに恥ずかしいのかというのは愚問。平気な顔して日々を生きる、もうそれが信じられないのだからしかたがない。
「親友交歓」は「私」が妻子ともに津軽疎開中に「親友」と称する男が家に上がりこんで、奥さんに暴言を吐くやら、とっておきの酒をがぶ飲みするやら傍若無人にふるまう話。「私」はじっと我慢するが、そんな「私」に対して男ははき捨てるように言う。「威張るな!」
トカトントン」は作家である作中人物に同郷の男が、ある悩みを相談する書簡体の小説。男の悩みは敗戦後、何かをしようとすると「トカトントン」という音が聞こえ、それまでのやる気や熱意がうそのように消えてしまうというもの。「いったい、あの音はなんでしょう。虚無(ニヒル)などと簡単に片づけられそうもないんです。あのトカトントンの幻聴は、虚無(ニヒル)さえ打ちこわしてしまうのです」これに対して、作中の作家は「いかなる弁明も成立しない醜態を君は避けているようですね」と答えている。
 気取らなくてもいいじゃない、恥をさらして生きていくしかないじゃない。そんな声が繊細すぎる作家の中で聞こえ、彼をかろうじてこの世に引き止めている。その葛藤をもっとも劇的に描いているのが「ヴィヨンの妻」である。戦中、金も食べ物のない妻子をほったらかしにして、作家は夜な夜な飲み歩く。そんなある日、行きつけの飲み屋の主人と女将さんが作家の家に怒鳴り込んでくる。作家が店の金に手をつけたというのである。奥さんは何とかその場を取り繕い、夫の借金を返すため店で働き始める。それで奥さんが生き生きしてくるのが、この短編のなんと言ってもいいところだ。夫のことをひどいなんて言っても始まらないだろう。奥さんは、みんな承知の上だ。夫のほうはと言えば、再びその飲み屋に出入りするようになる始末。夫が店で新聞を読んでいる。「やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンのにせ貴族だってさ。(…)さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人非人なんて書いてますよ。違うよねえ(…)」
人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
 妻は夫にもういいかげんに覚悟したらどうなのと言っている。この短編は妻の一人称で書かれている。それは心内の太宰自身の声でもあるはずだ。悪を引き受け、罪人であることを覚悟して生きるという選択は、太宰にはできなかったのだろうか。