死者のいる場所 藤野千夜『君のいた日々』

 もう20年以上前のことだけど、大学のゼミで内田百閒の『ノラや』について、当時の百閒は何を見ても何かを思い出す状態だったと思うと言った。それを聞いたK先生はちょっと考えて、「ボケてるんだね、それは」。
藤野千夜の『君のいた日々』を読んでいて、そんなやりとりがあったことをなんとなく思い出した。猫でも人でも同じこと。昨日までそこにいた人が今はもういない。残された人間は、否応なしに昨日までそこにいた人の痕跡を目の当たりにする。
『君のいた日々』は、同じ一組の夫婦の話なのだが、夫を亡くした妻バージョンと妻を亡くした夫バージョンが章ごとに入れ替わる。どちらも相手をとても愛していて、パートナーを亡くした悲しみにくれる日々を送っている。特に夫の春夫はひどいものだ。ことあるごとに妻の久里子を思い出してしまう。思い出すだけでなく、どうかすると泣き出してしまう。高校生になる息子の亜土夢はどちらかと言えば、冷ややかな目でそれを見ているようだ。
 久里子の遺影が置いてある仏間の蛍光灯が点滅するのに、春夫がそれを一向に交換しようとしないのも、息子のいらいらの種だ。久里子が何かを伝えようとしているかもしれないと言っては涙ぐむ父親を見れば、きっと誰だっていい加減にしてくれと言いたくなるだろう。しかし、藤野千夜はそうした臆面もない悲しみへの耽溺を、突き放すでもなく、かといって暖かく肯定するわけでもなく描いている。そこにあるのは、愛するものを失った人間が直面するごく当たり前の日常だと言っているようにも見える。蛍光灯だけじゃない。ロボット掃除機や出店の人形焼きなど亡くなった夫や妻は、いたるところにその影を落とす。あるいは、残された者はいたるところに記憶のかけらを見出す。
 微妙なのは亜土夢くんの立ち位置だ。彼もまた近親者を亡くした人なのに、とくに春夫がはでに悲しむものだから、亜土夢はその悲しみを共有できないでいる。蛍光灯を早く交換するよう父親に迫ったのは、きっとあんただけの久里子じゃないという気持ちもあったにちがいない。そんな彼らのもとにやってきたロボット掃除機には、春夫だけでなく、亜土夢も興味を示す。折に触れて、二人がロボット掃除機を話題にする場面は、春夫と亜土夢がきちんと久里子との別れを共有できたんだなと思って、感動的だった。
 幽霊とかおおげさなことではない。これは内田百閒も言っていることだ。そうではなく、ただ死者はいる。どんな形であれ、死んだらいなくなるというわけではないのだ。もともと藤野千夜は、人の気持ちをさりげなくものに託して描くのがうまい作家だが、ロボット掃除機ってすごいと思った。