日記ではなく 穂村弘『にょっ記』

「日記」ではなく、「にょっ記」。「にょっ」の分だけ「日記」からずれている。
「記」の分だけ「日記」につながっている。
 
 私は混んだ電車に立っていた。
 目的の駅に着いたので、おりまーす、と呟くと、前に立っていた女の子が、はーい、と云って道をあけてくれた。
 やさしい、かわいい、あかるい、やさしい、かわいい、あかるい、さやしい、かわいい、あかるい、やさしいと思って涙が溢れる。(8月21日 おりまーす)

 これなんか、「にょっ記」の中では「日記」っぽいほうだ。ヘンだと言えば、ヘンだけど、ほむらさんは電車に乗っていた。そして、電車を降りることができた。

 「うこん」の文字をみるたびに、どきっとする。
 「ちんすこう」の文字をみるたびに、びくっとする。(7月1日 うこん)

 ほむらさんは言葉が好きなんだと思う。言葉は意味をになってるだけじゃないことも知っている。それは字面だったり、音だったり、いろんな視点からポテンシャルを最大限に引き出してしまう。そうなるともう、読者はいつも「うこん」や「ちんすこう」の影におびえて暮らすことになる。それならいっそ「うんこ」にしちゃえば、そして忘れたころに「うこん」と呟いてみたらとほむらさんは言う。

 そのとき、あなたはいつか知っていた大切な何かを、もう少しで思い出しそうになるなるだろう。
  時をかける少女のように。(7月3日 うこん・その3)

 原田知世が大人になってから、深町くんと大学(?)の廊下ですれちがう。深町くんをみた原田知世の顔に一瞬とまどったような表情が浮かび、そして再び気を取り直したように歩き出す。ほんとうにそうだ。「いつか知っていた大切な何か」はいつも何かのきっかけで浮かび上がる機会をうかがっている。それは、意味が途切れた瞬間なのだ。『にょっ記』はその瞬間をとても上手に演出する。

 真夜中に、ベッドの上でぬいぐるみたちに通知表を配る。
 ぬいぐるみたちはとってもどきどきしていた。(10月1日 真夜中の先生)

 どきどきするにちがいない。ぬいぐるみたちの緊張が目に浮かぶ。『にょっ記』はまるでぶらんこのように少しづつ振幅を広げていく。突き抜けてしまうこともある。そうなるともう白昼堂々天使がほむらさんと街を歩く。天使もいろんなことが気になるタイプだ。
   
  天使とお茶を飲む。
  天使の云うことはことごとく私の心をうつ。
  さすがは天使だなと思う。
 「『キャンディ・キャンディ』の四巻だけ分厚いのどうして?」
                   (4月30日 天使と山崎)

 最初、この小さい本を体調の悪いときに読んだ。熱が出てて、体がだるかったけど読めた。2回目は4月になって、仕事が忙しいときに読んだ。ほかの本は読めなかったけど、この本は読めた。文章が読みやすいから。短いから。天使がいたから。言葉が意味を中断する瞬間を待つ。穂村弘はほんとにけうな言葉の使い手だと思う。