父親に出会う 村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』

  このエッセイを初めて読んだのは、『文藝春秋』(2019年6月号)に掲載されたときだ。村上春樹が父親の記憶や戦争体験などを息子の立場から語る率直な文章に触れ、ずっと村上春樹の文学を読んできた一読者として、「あ~」とか「おお~」みたいな言葉にならない感慨を感じた。いつかまとまったかたちで父親のことを文章にしてみたかったが、まとまらないまま時間が過ぎていったという村上春樹が70歳にしてようやく書き上げた父親のこと、それが本書だ。単行本には台湾のイラストレーター高妍によるイラストがついている。なつかしさと異化作用が奇妙に同居するイラストが単行本に雑誌初出時とはちがって、ふわっとした余白を与えている。

 村上春樹は折に触れ、アメリカ文学への傾倒を語っているが、サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ』、フィッツジェラルドグレート・ギャツビー』、レイモンド・チャンドラーロング・グッドバイ』などは特に偏愛の対象と言っていいと思う。

「こうして話を始めるとなると、君はまず最初に、僕がどこで生まれたかとか、どんなみっともない子ども時代を送ったかとか、僕が生まれる前に両親が何をしていたかとか、その手のデイヴィッド・カッパフィールド的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない」(J・D・サリンジャー 村上春樹キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライの冒頭を改めて読んでみると、初期の村上文学のスタンスのようなものが、端的に要約されている気がする。いわゆる〈僕三部作〉は「僕」にしろ「鼠」にしろ無名性によって支えられている作中人物だったが、それでいて彼らはホールデン・コールフィールドのように何かを語りたくてうずうずしていた。その何かがきっとわからなかっただけだ。『グレート・ギャツビー』の主人公はあたかも幻影そのものを追うような人物であり、ロング・グッドバイのテリー・レノックスは若々しい顔つきをしているのに、髪は真っ白だったという冒頭の描写は、彼の不在性を物語るかのようだ。

 頼りなげで心もとない彼らのありようはまカフカの小品「父の気がかり」に出てくる不思議な生き物オドラデクのようなものだ。そこには必ずそれを心配する父親がいる。オドラデクたちは故意にか無意識にか父親の咎めるようなまなざしを避けている。その視線を感じつつ目をそらすところで成立する文学、言い換えれば息子たちの文学、それが初期の村上春樹だ。

 そうであれば、息子たちはいずれ父親の存在そのものと出会うことになる。いや、出会わない場合もあると思うが、少なくとも村上春樹の文学的変遷はその大きな欠落への回避と接近の試みだった。2009年から2010年にかけて刊行された長編『1Q84』は異なる世界にいる天吾と青豆が出会う物語だが、この小説にはもう一つの「出会い」が語られる。天吾が海辺の療養所に入っている父親に会いに行く場面だ。

「その窓際の椅子に座っている老人が自分の父親だとは、天吾にはすぐにはわからなかった。彼はひとまわり小さくなっていた。いや、縮んでいたという方が正確な表現かもしれない」(BOOK2 第8章)

 ここには村上春樹と父親の実際の「出会い」が色濃く反映されている。村上春樹はまずフィクションの中で父親との再会を描く。『騎士団長殺し』では「出会い」というよりは「対決」と言ってもいいような形で父親が主要なモチーフになっている。父親と対決する息子たちは一体何を獲得するのか。その先に何があるのか。その答えのような小さな本が『猫を棄てる』なのだと思う。

 フィクションではなく、事実をそのまま記述するという作業の難しさと意味を本書はわかりやすく提示してくれる。冒頭に出てくる猫を捨てにいくエピソードや松の木にのぼって降りてこられなくなった子猫の話はフィクションをノンフィクションのあわいにあって、想像力をかき立てる。父親の人生を語り始める息子は、もう息子であって、息子ではないのかもしれない。息子が父親を語りながら、その存在に気づいたのは歴史である。果てしない歴史の広がりの一端に自分がつながっているというよるべなさが全編をただよう。

 たぶん本当に何かと出会うということは、孤独を知るということだからだ。『1Q84』で「いったん自我がこの世界に生まれれば、それは倫理の担い手として生きる以外にない」(BOOK3 第11章)というウィトゲンシュタインの言葉が引かれるが、かつての息子たちはそれぞれのしかたで、こうした言葉と向き合ってきたにちがいない。『猫を棄てる』は彼らのささやかでいて、どこまでも孤独であることの証明のような本だ。