記録すること カミュ『ペスト』

ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

  • 作者:カミュ
  • 発売日: 1969/10/30
  • メディア: ペーパーバック
 

  新型コロナウイルスの感染拡大により、2020年4月8日緊急事態宣言が発令された。当初5月6日までとされた期間は、1か月程度延長されることが確実な情勢だ。安倍政権は国民に対して不要不急の外出を控えるよう求め、多くの飲食店に休業を要請したが、肝心の休業補償が不十分なため、閉店を余儀なくされる店が相次いでいる。PCR検査数もオリンピックの開催に支障が出ることを恐れてか、PCR検査を増やすと医療崩壊が起きるというまことしやかなデマが流布され(政府の言い分を無批判に垂れ流すマスコミの責任は極めて重い)、検査数を極端に絞った結果、緊急事態宣言下であるにもかかわらず、感染がどの程度拡大しているのか、実のところほとんどわかっていない状況に陥っている。この愚かな政権をはじめ、大阪や東京の行政のやり方に対して言いたいことは山ほどある。

 前置きはこのくらいにしてカミュの『ペスト』の話をしよう。僕がこの本を手に取ったのは今年3月。まだ現在ほど状況は深刻になってなかった。長らく積読だった『ペスト』を読むときが来たくらいな気持ちだったのだ。しかし、はっきり言えることは、感染拡大が深刻な状況になっている今、本書『ペスト』においてカミュが提示した問題意識はよりアクチュアルな意味を帯びて迫ってくるということだ。二つの点を挙げよう。

 一つ目は構成の緻密さ、用意周到さである。

「この記録の主題をなす奇異な事件は、一九四*年、オランに起こった」

 仏領アルジェリアの要港オランにおいて、突如巻き起こったペスト蔓延の始まりから終息までを描く小説『ペスト』は、このように語り出される。「この記録」とある以上、ここには記録者がいることになるが、その人物の名は小説の後半にならないと明かされない。つまり、『ペスト』は「無名の」記録者によって語られる小説だということになる。しかも、その記録者は、民間の有志による保健隊を組織したタル―の手帳をしばしば引用する。

 これにより小説『ペスト』は、複数の視点や物語が導入され、重層性を獲得する。ときに進行が中断されたり、淡々とした状況分析が続いたりする『ペスト』は、明らかにいわゆる「盛り上がり」を作らないように、用意周到に構成されている。カミュが記録者が医師リウーであることをなかなか明かさなかったのも、リウーを中心としたヒロイズムに堕すことを避けるためではと推測する。

 完全に外界との往来を封鎖された都市オランには、そこに暮らす多くの人々がいる。感染が拡大し死亡者が火葬場まで貨車で運ばれるという事態に至っても、やはりそこには様々な人々の暮らしが続くのである。救護活動を通して神への考え方を変えたパヌルー神父、偶然オランに居合わせ、何度もオランからの脱出を試みる新聞記者ランベール、ペスト禍という非日常の到来を歓迎する犯罪者コタール、息子の死を通して人間らしさを取り戻す判事オトン、中でも同じ一文をくりかえし推敲するという奇妙な習慣をもった実直な老官吏グランはとても印象深い人物だ。

 こうした人々がペストにではなく、ペストという物語に取り込まれてしまわないこと、これが小説『ペスト』における最大の課題だったと思う。不安は人の冷静な判断を奪う。個人であることを忘れ、同調圧力に流され、気がつくと大挙して間違った方向へ流れ込んでいく。『ペスト』の中でもデマに踊らされる大衆が描かれるが、現在の日本では、愚かなポピュリズム政治家がマスコミと結託して、安手のヒロイズムで大衆の支持を獲得しようとしている。そうしたとき、真っ先に消されるのが個人の声だ。ペスト禍の中で個人を尊重する形での連帯とは何か。手記に手記を重ねという一見奇妙な構成を持つ『ペスト』は、出来事を「記録」するという方法を選んだのである。

 二つ目は『ペスト』という小説の持つ象徴性である。病状の生々しい描写はあるものの、淡々と事態の推移を追ってきた記録者リウー医師が、もう一つの手帳の書き手タルーと対話する場面がある。この場面でタルーは場違いとも思える唐突さで死刑制度の理不尽さについて語り出す。死刑に対する無関心で結果として死刑制度を容認する人間をペスト患者と呼び、僕はペスト患者になりたくなかった。それで政治運動を始めたという。『ペスト』がファシズムとの戦いになぞらえられるのは、こうした政治性のためだと思うが、僕が感心したのは、『ペスト』という小説が提示する即物性と象徴性(政治性)が、気味が悪いぐらい今の日本と重なり合うと感じたからだ。冒頭に現在の状況を書いたのもそのせい。

 今、僕らは二つの戦いを強いられている(戦いという語を使いたくないがあえて)。一つはコロナウイルスとの戦い。こちらは自然災害(ウイルスを災害と呼べるなら)。もう一つは愚かで無責任な安倍政権とそれに結託して批評性を持たなくなったマスコミとの戦い。こちらは人災。悲しいことだが、後者のほうが冷酷非道に国民を見殺しにしようとしている。本当に言葉通りの意味で、死んでもかまわないと思っているのだ。怒らないといけない。声を上げないといけない。黙っていたら、殺される。小説『ペスト』が教えてくれるのは、「記録」せよ、という単純にして、民主主義の大原則である。今僕らを殺そうとしているのは、改ざん、隠蔽、廃棄などなど出来事を記録するという作業を心から憎んでいる奴らだ。

 あったことをなかったことにすること、それはもう立派な犯罪である。