猫の行方 その3 金井美恵子『タマや』

 金井美恵子の『タマや』(『文章教室』『小春日和』『道化師の恋』とともに目白四部作の一作)の冒頭は、何度読んでもくらくらするようなめまいと痛快さのいりまじったような感覚を覚える。
 おねえっぽい話し方をするハーフのポルノ男優アレクサンドルが背中にしょったリュックの中に猫のタマを入れてやってきたとき、「ぼく」(夏之)はてっきりアレクサンドルは妊娠したアレクサンドルの姉恒子(「ツネコ」とわざわざカタカナで書かれたりもする)の「父親探し」をしていると思って心配したが(もちろん身に覚えのないことではないので)、アレクサンドルは恒子が飼っていた猫(こちらも妊娠中)を夏之に押し付けに来たのだった。
「父親がだれかってことに、おれは興味ないしね。あんた、ある? そういうことに興味が?
 う〜ん……とぼくは、口ごもり、彼は、こいつの、と猫をアゴでしゃくり、産んだ仔猫の父親のことまで気にする人間てのも、世の中にはいるね、毛並みや色や柄で近くをうろつきまわってるオスの赤トラかキジ猫かなんてね、気にするのが、と言って笑った」
『タマや』という冒頭の数ページで明かされる事実は、作中人物の人間関係を説明するというよりむしろ進んで人と猫を混同させようとするかのようだし、そうすることにより、非「父親探し」の物語という主題をはっきりと告げようとする。アレクサンドルと恒子は父親が違う姉弟で、二人とも父親の顔を知らない。
 恒子は、お腹の子の父親の可能性の男3人(不動産業の男、生け花の家元、京都の精神科医)から金だけ受け取って、行方をくらませてしまう。恒子の手がかりを追って、ぼくのアパートやってきた京都の精神科医冬彦は、なんと夏彦の父親違いの兄だということが、偶然判明したりと、猫の子の父親がわからないのと同様、作中人物たちはみな「血」ではなく「偶然」によってつながる根無し草のような存在である。
 かつて蓮實重彦は長編評論『小説から遠く離れて』の中で『羊をめぐる冒険』『裏声で歌へ君が代』『吉里吉里人』『コインロッカー・ベイビーズ』を取り上げ、「宝探し」というモチーフを共有していることを指摘した。そこにあるのは、探すという行為によって自分の出自を確認するという物語=構造だったわけだ。保坂和志河出文庫の解説で『タマや』を「〈構造〉の小説ではなく〈運動〉の小説」だと述べている。つまり、金井美恵子があとがきに書いているように、「猫も人間も生まれて来る子供の父親の正体を探そうとしても無意味だ」というのが『タマや』の世界である。「『タマや』はじつにじつに都合よく偶然の人間関係をつなげてゆく。そういう都合のいいことだらけなのがなんとも爽快なのは言うまでもないが、一応言っておくことにする」という保坂の言い方になんとなく苦々しげな感じが含まれている。猫つながりで解説を依頼されたのだと思うけど、保坂は『タマや』という小説が好きじゃないんじゃないだろうか。
 なぜか。保坂はデビュー作『プレーンソング』について「もしも私にお金があれば自分のまわりに友達を住まわせ」ることができるという発想で書き始めたと書いている。保坂の小説にはしばしば猫が登場するが、そして猫を象徴として扱わないとか言っているが(猫を象徴として扱う典型例は村上春樹)、誰かが猫や人に対して「父親」としてふるまうこと、それが保坂の小説の「自由」を保障している。『プレーンソング』にしても『猫に時間の流れる』にしても「だれのおかげで食えてんだ!」という恫喝が小説空間を支えているのである。
『タマや』は夏之のアパートにアレクサンドルと冬彦が転がり込んで奇妙な共同生活を送るという『プレーンソング』と似たような状況が生じるが、仕事のないカメラマンである夏之が彼らの生活費を出すというようなことができるはずはなく、ひまなアレクサンドルが料理を作り、人のいい冬彦に生活費を出させている。というか、彼らも「猫」なので、一人の金で誰かを養うようなことは、できない。確かにタマは、不妊手術を受けるが、『プレーンソング』や『猫に時間の流れる』のように近所の猫にえさを配って歩いたり、病院の野良猫に不妊手術をしたりすることは、『タマや』でははじめから興味ないことなんだと思う。
『タマや』の作者は、内田百閒の『ノラや』からタイトルを借用するだけあって、猫を偏愛している。猫を飼うという行為が人間のわがままにすぎないことに意識的である。非「父親探し」の小説『タマや』を書くことによって「小説家として成長することになった」という金井美恵子の『タマや』に描かれているのは、「父親」というフィクションが「偶然」によって(そうか、父親って、偶然がきらいなんだね)無効にされていくプロセスだと言える。そこには痛快さとともにちょっとさびしい感じもある。