言語のふしぎ 円城塔『道化師の蝶』

『道化師の蝶』は、芥川賞を受賞した表題作と「松ノ枝の記」の二作の中編小説が収録されている。「道化師の蝶」も「松ノ枝の記」も、言葉の持つ不思議をとことんまで突き詰めようとした、いわば「言語小説」である。どちらの小説も「翻訳」「言語」がキーワードだ。
 文庫版の解説者、鴻巣友季子は「翻訳文学に大きな挑戦状を突きつけられたと思い、非常にうれしくなった」と書いている。翻訳(通訳)については「不実な美女か貞淑な醜女か」(米原万里)という言葉があるが、古典作品の翻訳更新期を迎えて、たとえば『失われた時を求めて』は、井上究一郎訳なのか、それとも鈴木道彦訳なのか、はたまた吉川一義訳がいいのか、悩むところだし、どれを選ぶにしても異なった読書体験にならざるを得ず、しかもいずれにせよMarcel Proustを読んだのではなく、「プルースト」を読んだにすぎない。
 だったら、ブスよりかわいい子のほうがいいに決まってると言いたくもなるが、「松ノ枝の記」は、オリジナルがブスになるとかかわいい子になるとかいうレベルの話ではなく、日本語と英語でおたがいの小説を翻訳し合うという発端から、内容を改変する「翻訳」、相手が翻訳した自分の作品の翻訳(「戻り訳」というそう)、さらには翻訳をオリジナルに先駆けて出版するということまでやってのける。話がややこしくなって、ついに「わたし」は相手の翻訳者に会いに行くが…。「松ノ枝の記」は、手の込んだことに作中人物が書いている小説の内容が筋に絡んでくる。書きえないものへの夢想。
「道化師の蝶」は、多言語作家友幸友幸と、多くのエージェントを雇って彼(?)の行方を追う実業家A・A・エイブラスム氏、エージェントの一人「わたし」が主な登場人物。エイブラムス氏はいつも飛行機に乗り、飛行機の中で他人の着想を網で捕まえるのを仕事にしている。機中で架空の蝶を捕まえたのがそもそもの始まりというが、そんな架空の蝶よろしく、友幸友幸はエイブラハム氏の追跡をかわし続ける。エージェントが友幸友幸の居場所を突き止め、踏み込むとそこはすでにもぬけの殻で、大量の原稿が残されているという。
「道化師の蝶」の冒頭は、友幸友幸の小説『猫の下で読むに限る』であり、作中人物たちは、小説内の現実とフィクションの壁、そもそも男女の壁さえもやすやすとすり抜けてしまう。友幸友幸は、行く先々で当地の手芸や刺繍を習いながら、同時に言語を習得するという。手芸と書きもののが似ていることは言うまでもない。友幸友幸は「手芸が読めます」と言う。いやいや、そんな難しい話では、きっと、ない。
「日常の会話にはそんな(矛盾する)要素が多くある。互いの話は聞いてないし、前言は容易く翻されて、間投詞や相槌が盛んに割り込み、反復が多く行われる。わたしたちは流れの中でそれを会話と捉えているが、音をそのまま文字に起こして定着すると、何が言われているのかわからなくなる」(「道化師の蝶」)
 円城塔は、そんな空白や文字の文目に現れる友幸友幸という幻の多言語作家=架空の蝶を描いて見せた。