影とは何か その2 河合隼雄『影の現象学』

 影とは何か。本書『影の現象学』において河合隼雄は、ユングの影のイメージを手がかりに、様々な位相における影のありかたに迫ろうとする。ユング心理学における「影」の概念は、個人的な影のイメージと普遍性の高い元型としての影の二つに分けて考えられている。後者は「悪」そのものに近づくが、前者は「もう一人の自分」と意識されることが多く、必ずしも「悪」とは限らないという。
 本書の特徴は何といっても、心理臨床の現場の事例から夢、神話、小説などとても具体例が豊富で、読み物として無類におもしろいことだ。「影」は、たましい、夢、夜、地下世界、もう一人の私、道化、死と再生など様々な近接するイメージや概念を通して論じられていく。重要な点は、「影」にはつねに両義性がつきまとっていることだ。
「影は自我の死を要請する。それがうまく死と再生の過程として発展するとき、そこには人格の成長が認められる。しかしながら、自我の死はそのまま、その人の肉体的な死につながるときさえある」(「第5章 影との対決」)
 影との対決は、ときに命がけになることもある。第1章に紹介されているアンデルセンの童話「影法師」は、禁欲的な学者がうまく立ち回る自分の影にのっとられてしまう。一方で影と自我との統合がうまくいく場合もある。
 次に挙げるのは、ぼくが最も印象的だったエピソード。ある女子学生が著者のもとに幻聴の症状で相談に来た。この女子学生は、非常に厳格な家庭で育てられ、性に対するタブー意識がとても強い人だったという。彼女は、分析治療の過程で自分の影の自由奔放を意識し、強すぎる性に対する抑圧を和らげていった。
その時期に彼女は次のような夢を見た。
「夢 桐の箱が二つあり、各々に朱色と白色の色紙がはいっている。それには歌が毛筆で書いてある。各々四枚ずつはいっていて、それぞれ四季の歌が書いてある。「春なれや…」「夏なれや…」「秋なれや…」「冬なれや…」」(「第3章「影の世界」)
 この夢から覚めた彼女は「恋愛ということが認められる」と感じたという。詳細な分析は、本書を読んでいただくとして、ここにはなんと劇的な目覚めがあることか。
 最後にもう一つ、抑圧と顕現という関係のうちに見出される影の働きを見ておこう。ユングは、1936年に発表された「オーディン」というエッセイにおいて、ナチスの動きをキリスト文明においてあまりにも抑圧された北欧神話の神オーディンの顕現としてみるとき、よく理解できると述べている。河合隼雄は、こうした現象を影の反逆と指摘しているが、ここまで書いて急に思い出した。安保法制の強行採決を受けて、7月17日付の東京新聞内田樹のインタビュー記事が掲載されている。次はその一節。「表に出すことを禁じられたこの「邪悪な傾向」が七十年間の抑圧の果てに、ついに蓋を吹き飛ばして噴出してきたというのが安倍政権の歴史的意味である」 
 安倍政権は70年抑圧された「邪悪な傾向」への欲求が顕現した影である。だとすれば、その影はぼく(ら)のものである。だから、対決しなければならない。それをどのように始めればいいのだろうか。河合隼雄は、現代人がかつてのように地下世界に地獄を認められなくなったことを指摘したうえで、「おのれの心の中に地獄を見出す」べきだと主張している。心の地下世界には、ユングが幼いときに夢で見たという「地底の王」が住んでいる。平和ボケという言い方が当を得ているとすれば、それは過去を忘れることである。ぼく(ら)は「邪悪なもの」の存在を決して忘れるわけにはいかない。