ただ読むという、たのしみ 朝吹真理子『流跡』

『きことわ』がおもしろかったので、手に取った。本書『流跡』には、朝吹真理子のデビュー作にあたる中編「流跡」と短編「家路」の二篇が収録されている。『きことわ』は25年の年月を経て再会した女性ふたりの官能と時間をめぐる物語だった。そこには、日常性の中に、夢のかけらともいうべき形象が、さりげなく、それでいて大胆にしのばせてある危険な小説だったが、「流跡」は、何ひとつとどまることなく流れゆく流れそのものが、描かれている。
 ストーリーはあってないようなものだが、全体を大きく4つに分けることができる。まだ何もない白い紙から次第にもやもやとしたものが人の姿になった主人公(?)は、桜が咲くなか神社の祭礼に迷い込む。海上にせり出した舞台で舞を舞っている。その様子をぼんやり眺めていると、知らない女に突然、次はあなたの出番だと急き立てられる。あわてて逃げ出すというちょっと百閒の短編にでもありそうな展開。さらに場面が変わって、主人公は夜舟の舟頭になっている。どうも昔、人を殺めたことがあるらしいが、よく覚えていない。言われたとおりに人やものを運ぶのだというが、昼と夜の川はちがう。夜の川はよじれる。うっかりすると、もとの流れから切り離された出口のない空間に入り込んでしまう(この場面は、解説の四方田犬彦によると『東海道四谷怪談』の伊右衛門の境遇を下敷きにしているのだそう。朝吹真理子修士論文鶴屋南北)。
 3つめの場面は、普通のサラリーマンの男性が雨上がりの水たまりに焼却炉の煙突の幻を見るという入眠幻覚のような話。幻覚は次第にはっきりとした現実感を持つようになり、男を誘惑する。その果てに男が見る幻覚は思わずあははと笑わずにはいられない。最後の場面は、廃墟のようになった銅の精錬所跡がある島を、女がふらふらとさまよう。
 以上のような4つの場面に何らかの意味のつながりを見出そうとしても、むだだろう。「流跡」というタイトルの示すとおり、すべては形を変え、流れていく。川の流れを見て意味を考える人はいない。
「客をのせ、頼まれたところまで運ぶ。それで日銭を稼ぐ。客はなにもヒトには限らない。ときによって様様かわる。めづらかな爬虫類、剥製、USBメモリ、密書の入った文箱、スーツケース、厳重に梱包された板きれのようなもの、あるいは生あたたかな風呂敷包み、段ボール箱、夜更けに運ばねばならないものである以上、たいていよからぬものに違いはないのだ」
 流れの中にこつんと硬い石ころやぷかぷか浮かぶ得体のしれない物体につきあたるこの不思議な文体に身をまかせ、朝吹真理子の大胆なのか繊細なのかよくわからない試みに流されていくのが「流跡」という小説の正しい読み方、というか流され方かなという気がする。