猫の行方 その2 保坂和志『猫に時間の流れる』

 猫を見ていると、何を考えてるのかなと思うことがよくある。犬を見てもそんな気持ちにはならない。犬はよくも悪くも人間によりそうように生きている。猫も同じように人のそばにいる動物なのに、人の思うようにはならない。猫がいるところには、一種の意味の空白のようなものが生じる。だから、猫はときに過剰に人の心理が投影される対象になる。化け猫はいても、化け犬はいない。
 こんなことを考えたのは、保坂和志の『猫に時間の流れる』を読んだからである。表題作と「キャットナップ」という二篇の中編を収めた作品集。どちらも猫が作品の中で重要な位置を占めている。「猫に時間の流れる」の「ぼく」は、同じマンションの住人でチイチイの飼い主美里さん、パキの飼い主西井と猫を通じて知り合いになった。夕方になると3人はマンションの屋上に出て、猫を遊ばせながらだらだらとおしゃべりする。そこに近所のボス猫クロシロが現れて、マーキングしたり、けんかしたり…。
 クロシロというボス猫の動きを軸に展開する「猫に時間の流れる」は、猫をどのように解釈するかという「物語」をめぐる小説でもある。近所のうわさ話ばかりしているタイル屋のおばさんは、ことあるごとに「クロシロは猫エイズだ」という。タイル屋のおばさんは、出来事を安易に物語化することで自分の取り巻く環境を解釈する。凶暴で憎らしいクロシロは、そんな解釈の格好の対象である。「猫に時間の流れる」には、ワイドショー的おばさんの安易な猫解釈と、「自分の知っていることを二つ結びつけて納得している」とか、「猫は人間の象徴やメタファーのために生きているのではない」といった言葉による相対化が、せめぎ合っている。保坂和志は、猫が人の解釈を誘い、物語化されてしまうことを頑なに拒否しようとする。
 とある病院に住み着いている猫が子猫を生むたびに、処分されていることを知った同じアパートの住人上村さんが「ぼく」を誘って、不妊手術を受けさせるために猫を捕まえる「キャットナップ」。ここに描かれる猫への実力行使を読むと、どうしても複雑な思いにかられてしまう。子猫が焼却炉で焼かれるといった事実を知ってしまった以上、行動するべきだというようなことを上村さんは言う。確かに、そうかもしれない。仮に上村さんたちの行為に暴力性が含まれていたとしても、焼却処分される猫を救うためにしていることなのである。
 ともあれその暴力性は、何に由来するのか。ぼくは保坂和志という小説家の中に「タイル屋のおばさん」的解釈への欲望がないとは思えない。むしろ、保坂は「タイル屋のおばさん」的解釈への欲望があまりにも強いせいで、それを恐れるあまり拒否しているのではないだろうか。
 美里さんも上村さんも年上の美人で、「ぼく」は二人の部屋に上がり込んで猫の世話までするのに、彼女たちを押し倒すようなことはしない。保坂和志の小説世界では、性的な欲望を持つ男が美人と同じ部屋にいたら、普通押し倒すだろっみたいな安易さを拒否するところで成り立っている。しかし、だからといって、そういう欲望が消えてなくなるわけではない。
 上村さんは、「ぼく」に下着泥棒の被害にあっていたり、男に付きまとわれたりしていることを打ち明けるが、そのとき暴力というのは、肉体的な力関係を背景に持つという話をする。いざというとき、やはり女は男の腕力に勝てない。そういう物理的な力関係でいうなら、猫だって同じで、猫は捕まえられるけど、犬は難しい。やせ我慢する保坂的世界の危うい均衡が「キャットナップ」では、崩れてしまったように思える。保坂和志は猫なんかつかまえてないで、一度、自分の暴力性に向き合う小説を書くべきなのである。