迂回の果てに カズオ・イシグロ『充たされざる者』

 カズオ・イシグロといえば、各国でベストセラーになった『わたしを離さないで』を思い出す人も多いだろう。あるいは、ブッカー賞受賞作『日の名残り』。ぼくは本書『充たされざる者』以外では『日の名残り』と『わたしたちが孤児だったころ』を読んだことがあるだけだが、その二作を読んで、カズオ・イシグロは、まあもう読まなくてもいいかなと思っていた。どっちも小説としての完成度が高い。でも、端正な文体の中に生きることにともなう罪のようなものを暴く主題がどうも割り切れすぎる気がしていた。
充たされざる者』は『日の名残り』と『わたしたちが孤児だったころ』の間に書かれた長編第4作にあたる。保坂和志がエッセーで『充たされざる者』をほめていたことがあって、その意外性から読んでみようという気になった。
 世界的ピアニストのライダーはとある欧州の都市にやって来た。「木曜の夕べ」という催しで演奏するためだ。ところが、ライダーは「木曜の夕べ」がどのような催しなのかもわかっておらず、演奏曲目さえ決まっていない。イベントに関わる人々の言動から「木曜の夕べ」は、その街の命運を左右する重要な催しだということはわかってくるが、ライダーの名声を頼んで、様々な人々が思いもよらぬ頼み事をしてくるので、ライダーは演奏に集中することができず、会場を下見することさえままならない。
 と、このようにあらすじを書くと当然思い出されるのがカフカの『城』である。ある冬の夜、城から仕事の依頼を受けた測量士を名乗る男Kが城のある村にやって来るが、一向に城にはたどり着けず、ただ迂回を重ねるばかり。目的(地)が示されているのに、それにたどり着けないという構造は迂回そのものが主題になるので、とにかく長くなる。『充たされざる者』は文庫で900頁を超える。問題は、何を迂回しているのかということだ。
 読み進むにつれてわかってくるのは、ライダーという語り手が全く信用できないということだ。例えば、ライダーが滞在するホテルのポーターのグスタフは、ライダーに関係が悪くなった自分の娘との関係修復に一役買ってほしいと頼み込む。ホテルのポーターと偶然の客の関係でしかないはずのライダーになぜそんな立ち入った頼みごとをするのか、いぶかしく思いながら読んでいると、どうもライダーとグスタフの娘ゾフィーはかつて何らかの関係があったようなのである。いつの間にかあたかも二人は恋人か夫婦であるかのように話が進んでいる。
 肝心なことは、ゾフィーとの関係やかつてあったいざこざをライダーがすっかり忘れているということである。あるいは、ライダーにとって都合の悪いことは故意になかったことにされている。ここで生じる迂回は、忘却、故意の知らぬふりに起因するものだ。もちろん、忘却や知らぬふりがいつもうまくいくわけではなく、むしろそうした態度がライダーを不意に襲うトラブルを誘発することになる。いくら見ないようにしても、都合の悪いものがなくなるわけではない。
 一見、親切で非の打ちどころのないライダーという人物は現実を都合よくより分けることで自分を紳士として成り立たせている。となれば、こういう視点人物による小説がリアリズムであるはずはなく、小説世界の時間や空間は大きくゆがめられ、旧市街の古いカフェとホテルがつながっていたり、ゾフィーゾフィーの息子ボリスとライダーの3人で歩いているはずなのに、いつの間にかゾフィーだけがどんどん先へ行ってしまって、ボリスとライダーが夜の街に取り残されたりといったことが次々に起こる。
 もう一つ特徴的なのは、ライダーとゾフィーの関係に限らず、いく組みもの夫婦、恋人、親子といった関係がうまくいっていない二者関係、あたかも鏡で映したかのような相似形が、物語の中に配置され、それらが共鳴し合う(といってもそれらは不協和音だが)。コミュニケーションが断絶している冷え切った関係が複数描かれることにより、作中人物たちの抱えている取り返しのつかない悔恨が露わになっていく。作中人物たちが個人の悔恨を紛らすための手段として、街や仲間の名誉といった集団的なものにアイデンティティを見出そうとしているのも実に気持ちが悪い。文庫の「訳者あとがき」で、『充たされざる者』は「ブラック・コメディーとして書いたもの」というカズオ・イシグロのことばが紹介されているが、だとすれば、救済のない不条理な世界をここまで徹底して笑った小説も珍しい。