禁じられたのは何か レイ・ブラッドベリ『華氏451度』

華氏451度 (ハヤカワ文庫SF)

華氏451度 (ハヤカワ文庫SF)

 

 『火星年代記』と並ぶレイ・ブラッドベリの代表作『華氏451度』は、本を持つことも読むことも法で禁じられた世界が描かれている。市民からの通報により、本を隠し持っている家があると、焚書官たちが駆け付け、すべての書物を焼き捨てた上、所有者を逮捕する。

 この世界の大衆に与えれるのは、軽薄で中身のない娯楽ばかり。人々は壁いっぱいに広がるテレビのスクリーンに見入り、テレビが提供する《家族》との対話に夢中になる。焚書官モンターグの妻ミルドレッドもぼんやりとテレビを眺めているが、充たされないものがあるらしく、夜の街を車でぶっ飛ばしたり、睡眠薬を飲みすぎて死にかけたりするが、本人は虚しさや孤独を抱えているという自覚がない。

 モンターグは近所に住むクラリスという17歳の風変わりな少女と話をするようになったのをきっかけに、何かとものを考えるようになる。クラリスに仕事を問われたモンターグは初め「おもしろい仕事さ。月曜には、エドナ・ミレーを焼く。水曜には、ホイットマン。金曜にはフォークナー。みんな焼いて灰にしてしまう」と自慢げに話すが、クラリスとの対話を通して、自分の仕事に疑問を持ち始め、他の隊員に隠れて本を自宅に持ち帰るということをくりかえすようになる。

華氏451度』の腑に落ちないところは、このモンターグの葛藤なき変節である。彼はいつ書物はよいものだと認識するに至ったのだろうか。自分が服務規定違反を犯していることから、職場の《機械製シェパード》を恐れるというのはわかるにしても、自らの手で多くの書物を灰にしてきた事実に対する罪悪感はないのだろうか。

 モンターグはテレビをはじめとする大衆的で低劣な娯楽にいら立ちを覚えるのだが、ブラッドベリ本人の嫌悪感を性急にモンターグに投影しすぎているように思える。モンターグのふるまいに対する疑問は、彼がさほど本を読んでいるようにも見えず、憧れが情熱へと変わっているだけに思えるところからきている。後半の奮闘ぶりにもかかわらず、モンターグが単純な書物の守り手になっているのに対して、かつて本の魅力に取りつかれていたのは、署長のビーティだろう。

 該博な知識を持つビーティが人生のある一時期、本の虫であったことは間違いなく、その上でビーティは、本に裏切られた、あるいは書物はこの世に有害であるという考えを持つに至ったのであり、ビーティのすごみはそうした葛藤を経て、選択的に生を選び取っているところだ。皮肉にも政府の代弁者である彼が、語る言葉を持つという点で、作中の数少ない考える人に見えてしまう。

「これはけっして、政府が命令を下したわけじゃないんだぜ。布告もしなければ、命令もしない。検閲制度があったわけでもない。はじめから、そんな工作はなにひとつしなかった! 工業技術の発達、大衆の啓蒙、それに、少数派への強要と、以上の三者を有効につかって、このトリックをやってのけたのだ」

 ビーティは焚書の成立過程をこのように説明する。彼が言わんとしているのは、大衆が望んだことを政府がしたという詭弁だが、そこで世の中から抹殺されたのは、知性や少数派、言い換えるなら、自分でものを考えようとすることだった。象徴的なのは『華氏451度』の世界では、密かに戦争の計画が進められているという事実だ。しかし、そのことに市民はもはやだれも関心を持たないし、ニュースでもやらないのだった。

 クラリスとその一家がいつの間にか姿を消したのも、変わり者は速やかに排除する『華氏451度』の世界をよく表している。本を持つこと、読むことが禁止されたというのは、あくまで政策のシンボルあり、本当に禁じられたのは、自分でものを考えること、感じることそのものだった。もちろん、本はその助けになるものなのだ。

 服務規定を破ったモンターグが追ってから逃れ、助けを求めた元英文学教授の言葉は重い。

「げんに、あんたたちのような焚書係も、毎日、仕事があるわけじゃないでしょう。つまりは、国民そのものが、本を読むことを忘れてしまっておる。禁じられたから読まんわけじゃない。(…)大衆というやつは、気安く遊べる楽しみしかほしがらんものでね」

 大衆の目を本質的なものから目をそらす刺激的な娯楽ばかりが氾濫する世の中をブラッドベリが批判的に見ていたのは言うまでもないが、そうした世界にしてしまったのは、考えるというめんどうな作業を自ら放棄した私たち自身だというメッセージが『華氏451度』には込められている。

 そして、またしてもというべきか、レイ・ブラッドベリは戦争の勃発によって、すべてをご破算にしようとする。やはりブラッドベリは廃墟の抒情詩人なのだ。それにしても『華氏451度』に書かれている状況が実に現代の日本社会にぴたりと重なり合うこと、驚くしかない。人物造形に関しては、多少不満が残るものの、古びるどころか、今こそ読む意味のある小説だ。