ロカンタンの冒険 サルトル『嘔吐』

 

『嘔吐』は1938年、サルトルが33歳のとき、刊行された。刊行時期は第二次世界大戦の開戦前年だった。戦後、サルトルが文学のアンガージュマン(社会参加)を唱える前のことであり、本書に関する作者の態度も変化したことが、訳者白井浩司の「あとがき」にも言及されている。サルトルは小説、劇作、哲学、評論などの分野で幅広く活躍した文学者で、本書もまたサルトルの思想と切り離して考えることはできない。前掲「あとがき」によるとボーヴォワールの著書『女ざかり』にはサルトルの意図は「形而上的心理と感情とを、文学的形態の下に表明すること」だっとあるそうだ。しかし、残念ながら、僕は哲学とか現代思想が勉強不足で(もしかしたら勉強しても?)わからない。なので、このレビューはあくまで『嘔吐』を一小説として読んだ読後感である。

『嘔吐』の主人公ロカンタンは「中部ヨーロッパ、北アフリカ、極東方面」を旅行して、帰国。18世紀の冒険家ド・ロルボン侯爵に関する本を執筆するためブーヴィルに滞在している。ブーヴィルでのロカンタンの生活範囲は狭く、自宅、図書館、カフェ、ビストロ「鉄道員さんの店」、日曜日の散策などに限られている。彼は「仕事」と呼んでいる執筆は遅々として進まない。「鉄道員さんの店」では、いつも同じ「いつか近いうちに」というタイトルのレコードを聴く。ときどき店の女将さんと二階へ上がっていくし、かつての著作で図書館で出会う男(独学者)から尊敬されたりもする。思わず、いい身分だなどと言いたくなるが、こうした一見静かな生活を送っているロカンタンという男の精神は、あるいは世界は、静かに壊れ始めている。

 仕事への情熱を失いかけているロカンタンは、ただ夜を待ち、カフェへ出かける。店に入ったとき、吐き気が彼を襲う。

「そのとき〈嘔気〉が私をとらえた。私は腰掛けの上に崩折れるように腰を下ろした。自分がもうどこにいるのかさえわからなかった。私は、周囲をいろんな色彩がゆるやかに渦を巻いて流れるのを眺めていた」

 吐き気とともに感覚の歪みも生じており、吐き気はロカンタンの「世界」が壊れかけていることを告げる予兆として機能している。その後、彼は街路で、公園で、レストランで、電車で吐き気に襲われた。そして、ロカンタンは考察する。

「〈嘔気〉は私から離れなかったし、それがすぐに離れるだろうとも思わない。しかし、私はもう嘔気に襲われまい。嘔気とは、もはや病気でも、一時的な咳込みでもなく、この私自身なのだ」

 僕はさっきロカンタンの世界が壊れ始めていると書いた。しかし、厳密に言うならロカンタンの体験は崩壊と現前が同義であるような特異な体験である。上の引用のあと、麻薬中毒患者の見るような幻影がロカンタンの前に現れる。彼はその幻影をこういった。

「赤裸々な〈世界〉は、かくて一挙に姿を現した」

ロカンタンは一体何に苦しんでいるのだろう。

ロカンタンが図書館で知り合った男にかつての旅行について語る場面がある。

「あなたはたくさんの冒険を経験なさったでしょうね?」

「多少は経験したですよ」

このように口では言ったものの、このあとロカンタンは考える。

「わたしは冒険を経験しなかった。(…)私は、いまようやく、わかりかけてきた。いつもなにごとかを、それだけをなによりもたいせつにして、今日まで暮らしてきた―(…)それは恋愛ではなかった。(…)また名誉でも、富裕になることでもなかった。それは・・・。結局、ある瞬間に、私の生活が稀有な貴重な特性を持つことができる、と思い込んでいたのだ」

特別な瞬間を意味する言葉は『嘔吐』において何度となく繰り返される。この瞬間の特権性をかつてロカンタンは「冒険」の中に求めた。しかし、その瞬間がもはや決して訪れることなく、完全に失われてしまったのだという認識が『嘔吐』という小説の出発点だと言っていい。

1913年から1927年にかけて刊行されたプルーストの『失われた時を求めて』が主人公「私」にとってかつて存在したはずの特権的時間をあきらめきれず探し求める小説だとするなら、その特権性を完全に奪われたという認識から始まる小説が『嘔吐』だと言えるだろう。冒険はもうない、と言えばそれは老人の繰り言にすぎない。しかし、たったひとりで行われるロカンタンのブーヴィル彷徨こそ、もう一つの「冒険」にほかならない。たぶんこの冒険の先駆者はカフカだ。しかし、ロカンタン(サルトル)もまた、ここから始めざるを得なかったのだろう。

 ロカンタンがかつての恋人アニーと再会し、そこにかつて愛したアニーを見出すことができなかったのは、ある意味当然で、彼の過酷な「冒険」を側面から補強する一挿話だろう。冒険の困難は、それが行われているとき、それを認識し、意味づけることばがないことだ。サルトルはロカンタンの「手記」という形でこれらの「冒険」の記述を試みたが、それが「文学的形態」であっても「物語」ではなかった。

 ブーヴィルを立ち去ることを決めたロカンタンは最後に「鉄道員さんの店」を訪れ、お気に入りの「いつか近いうちに」を聴く。その曲、歌声を聴きながらロカンタンは一冊の小説を書くことを夢想する。この夢想のきっかけを作ったのは、彼のお気に入りの歌声だったかもしれない。しかし、ブーヴィル彷徨といういまだ名づけえぬロカンタンの冒険こそが小説を書いてみようかという気にさせたにちがいない。