無垢の魂 ハーマン・メルヴィル『白鯨』

『白鯨』というと思い出すのが、ウディ・アレンの映画『カメレオンマン』。周囲の人間に完璧に同化し、性格、体つき、顔つきときには、人種までを擬態してしまうカメレオン男の話。なぜそのように次々と姿形を変えるのかと問われた男は、きっかけは「『白鯨』を読んだ」というウソだったと告白する。いわゆる名作にはこの手の悲劇がつきもので、読んだような顔をして沈黙を守るなんてことも…。で、とうとう読んだわけですね、『白鯨』を。
 とにかく長いこのお話、そのあらすじはみなさんもご存知の通り。「白鯨」とあだ名される伝説のマッコウ鯨に片足を食いちぎられた捕鯨船の船長エイハブが復讐を果たすべく、執拗に白鯨を追い求める物語。とはいえ、阿部知二訳の岩波文庫版で主人公であるエイハブが最初に登場するのは、上巻200頁すぎたあたり、もう一方の主役であるモービー・ディックに至っては、下巻の最後にならないと出てこない。
 つまり、『白鯨』という小説の大部分が、饒舌すぎる語り手イシュメイルのおしゃべりというわけ。捕鯨の意義や歴史、航海の様子、鯨の種類、自分の生い立ち、乗組員の生い立ち…。えんえんと続くおしゃべりは、まるで寄せては返す波みたいに読者を眠気に誘う。しかし、それもそのはず、航海は何年も続く。おしゃべりでもして退屈を紛らわさないではいられない。船員達は毎日毎日果てのない海を眺めて暮らす。うらうらとやさしい陽光が甲板を照らす日だってある。帆柱の突端で見張り役を仰せつかっている者だって、つい鯨の群を見逃したりする。まさに潮流に身をまかせる読書。しかし、気を緩めてはいいけない。そのようなとき、エイハブの呪いのような言葉が投げかけられる。

「わしはあいつを追って、喜望峰だろうとホーン岬だろうとノールウェイの大渦の縁だろうと、いや地獄の火の縁だろうと、やめはせぬぞ(三十六章)
もし我らがモゥビ・ディクを追って仕止めなかったならば、神が我ら一同を仕止められよ(三十六章/阿部知二訳)」

 エイハブの魂は、いわば無垢(イノセンス)。この無垢の魂に傷をつけてしまったモービー・ディックは、決して許されることはない。なぜなら、許しというのは、己が罪人であることの自覚に根差しているからである。この復讐の鬼と化した船長に唯一意見する者、それが一等航海士スターバック。

「ぼくは鯨捕りにやってきたんで、船長の仇討ちの手伝いにきたんではありません。あんたの仇討ちがうまく行ったとしたらばいったい何樽儲かるんですか(三十六章/阿部知二訳)」

 合理主義者スターバックの言葉は、しかし、「侮辱されたら太陽にでも打ちかかる」エイハブには決して届かない。でも、考えてみたら、無垢というオブセッション(「ぼくは悪くない」という少年のつぶやきを連想させる)と徹底した合理主義は、アメリカという国家をを支える車の両輪のようなもの。結局のところ、エイハブもスターバックも海の藻屑と消える運命を負っている。しかし、モービー・ディックはいい災難だよなあ。
(ちなみに、コーヒーの「スターバックス」は、この一等航海士の名に由来しているらしい。どうせなら「エイハブ・コーヒー」にすればいいのに)