魂とごっこのあいだ 松浦理英子『ナチュラル・ウーマン』

 かつて河合隼雄は女子高生の援助交際について「魂を傷つける」と発言し、多くの賛同と批判の声が寄せられた。反響の中心は「魂」ということばの当否である。ここで河合の発言が適当であるかは問わない。というか、よくわからない。関心があるのは「魂」ということばが、ひどくぼくを落ち着かなくさせるということ、そして魂というものが仮にあるとして、その対義語は何かということである。
ナチュラル・ウーマン』は「いちばん長い午後」「微熱休暇」「ナチュラル・ウーマン」の3つの短編で構成されていて、主人公の「私」(村田容子)と1作ごとに異なる3人のガールフレンドとの恋愛関係を描いている。松浦理英子はものすごく理知的な作家というイメージがある。『親指Pの修業時代』(河出文庫)のあとがきで、『ナチュラル・ウーマン』が「全然認められなくて、面白くなかった」と書いている。そのぶん『親指P』では、思う存分「ペニス」を相対化しつくしたって感じ。相対化するのとその存在を描かないのとは違う。
ナチュラル・ウーマン』には周到に「描かれないもの」が多い。まず、「ペニス」が出てこない。女同士のセックスシーンが生々しく描かれているのに、女性器への挿入行為もまた描かれていない。彼女ら性的マイノリティーは、つねに中傷や差別の対象であるが、そのような社会や個人の過去(トラウマ)もまた描かれていない。言い訳なしの真剣勝負。密室での性行為が繰り返され、結果として二人の関係は煮詰まってくる。ここに浮かび上がるのが「魂」ということばである。
 容子の最初の恋人花世は言う。「私、あなたを抱きしめた時、生まれて初めて自分が女だと感じたの。男と寝てもそんな風に思ったことはなかったのに。」花世は自分が女であることにアイデンティティを見出している。しかし、容子は違う。「自分が何なのか、いわゆる『女』なのかどうか、私にはわからない。そんなことには全く無関心で今日まで来た。これからだって考えてみようとは思わない。(…)」端的に「わからない」というのである。そんなこと考えることもなく、容子は花世に恋し、体を重ねていたことになる。それを魂の欲するままにと言い換えてもいい。しかし、その孤独は自分で引き受けるしかない。花世の掌が容子の股間を覆っていたとき、容子は「入れてもいい」と言った。しかし、花世は言う。「馬鹿ね。男と女ごっこをやるつもり?」
 誰かに言われなくても、ぼくらは次第に自分の社会的役割というものを認識する。「男と女ごっこ」を拒否した花世も女であることの中に自分を見出している。セックスというごく私的な領域の営みもまた、社会に要請される役割を演じることになる。もし「魂」ということばを聞いて、不安になるなら、その存在を忘れるほどに役割の中に自己を見出しているからである。貪欲な魂の声に従う者は、恐ろしく孤独なのだと思う。でも、もし自分の人生が「ごっこ」ばかりだとしたら、それもさびしい感じがするなあ。