フィリフヨンカの不安、ニョロニョロのいのり トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の仲間たち』

 子供のころ、『ムーミン谷の彗星』という本を読んだ。すごくおもしろかったという記憶はあるのに、もうどんな話だったか覚えていない。そんなわけで、ある人が梅田のその日2軒目の居酒屋で焼酎を飲みながら「この世のおわりにおびえるフィリフヨンカ」の話をするまで、またムーミンを読むことになるとは、思ってもみなかった。ぼくはフィリフヨンカの話を聞きながら、気がついたら涙が止まらなくなっていた。
 フィリフヨンカは、自分の家が気に入っていない。おばあさんが若いころ住んでいたという理由で借りたのだが、住み始めてから、それは間違っていたことがわかった。フィリフヨンカにはこまごましたきれいなものを集める習性がある。小さい貝がらとか、せとものの猫、きれいなお茶道具なんか。でも、それらを彼女のうちのどこに置いても、不思議なことにみな色あせてみえるのだという。あるときフィリフヨンカはお茶にやってきたお友達にいう。「このおだやかさは、ふつうじゃないわね。なにかおそろしいことが、きっとおこるのよ。」お友達はフィリフヨンカの不安を理解しようとしない。しかし、彼女の不安は現実のものとなる。あらしがやってきて、何もかも持って行ってしまうのだ。
 何一つ自分のものだと言えるものはない。結局のところ、すべては借りているにすぎないと思うのだ。だから、いつかやってくるはずの取り立て屋の影におびえることになるし、取り立てが行われたとしても文句は言えない。でも、あらしによって家と持ち物を失ったフィリフヨンカは不幸にはならなかった。
 自分の持ち物があって、ムーミントロールがいて、ムーミンパパやママがいる。そんな目で見えるあたたかな世界がある一方で、いじめられて透明になってしまった子供が唐突にムーミンの家族に押し付けられたり(「目に見えない子」)、パパが理由もはっきりしないまま、海の向こうにあるニョロニョロたちの場所へいってしまったりする(「ニョロニョロたちのひみつ」)。パパはニョロニョロたちとことばを交わすことはできなかった。きっとニョロニョロたちは、いのっているのだと思う。いや、正確に言うと、彼らはかみなりに向かってせいいっぱい手をのばしているだけだ。だからこそ、それはいのりになる。『ムーミン谷』は「とても小さくて、とるにたりない生きもの」たちが住むところ。トーベ・ヤンソンはおとぎ話でしか語れないやり方で「生の残りの半分」を見事に目に見えるようにしている。