神話としてのベースボール ラードナー『ラードナー傑作短篇集』

 野球というスポーツが好きだ。ベースボールではなく、野球。その昔、藤井寺球場という球場があって、近鉄バファローズというチームがあった。ぼくはそこで野茂も松坂もイチローも見たのだ。内野席で観戦していたとき、まだ試合中だというのに、山本和範というこわもての顔つきの選手が観客席の通路にしゃがんで客と楽しそうに談笑していた。あれは見間違いだったのだろうか。いくら藤井寺球場は選手と観客が近いといっても、試合中に選手が客席にしゃがんでるなんてことがあるだろうか。
 その後、野茂を皮切りに、松坂もイチローも海を渡って、ベースボール・プレーヤーになった。近鉄バファローズというチームはなくなった。野茂がドジャースに入団したのが1995年。その頃初めてベースボールを意識した。青い空と芝生。今にも第一球を投げようと大きく振りかぶる投手。ザ・グレイト・ジャズ・トリオのアルバム『アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』のジャケットを思い出してもらってもいい。とんでもなく体のでかい奴らがブンブンバットを振り回し、ピンポン玉のようにボールが飛んでいく。そんなところへ野茂は単身乗り込んでいった。
 さて、ようやくラードナーである。野茂がメジャーリーグへ行く70年も前、野球を中心としたスポーツのコラムニストから作家になったラードナーは、野球物を書くユーモア作家として1920〜30年代に大人気だったようだ。ワンプレーごとに言い訳しないと気が済まない「アリバイ・アイク」、野球そっちのけで合唱に夢中の「ハーモニー」、持ち前の剛速球が女との関係に左右される「ハリー・ケーン」などは、確かにユーモア短編と言えるものだが、打撃に天賦の才を持ちながら、自分本位にしか行動できず自滅する「相部屋の男」、野球物ではないが、アメリカの日常に潜む暴力性がギラリと光る「散髪の間に」に至っては、むしろ怪奇短篇といったほうがいいような気がする。
「この店にはもうひとり理容師がいましてね、土曜だけカーターヴィルから手伝いにくるんですが、ほかの日はあたしひとりで間に合うんでさあ。ご覧のとおり、ここはニューヨーク市とはちがいますからね、それに男はみんな一日じゅう働いておりますから、ここにきてめかしこむ暇なんかありゃしないんでさあ」(「散髪の間に」)
 饒舌な語りの文体の中に共通して登場するのは、ありあまるほどの才能を持ちながら、それを効果的に発揮することができない極端に不器用な男たちである。うすのろであったり、狂暴であったりする作中人物たちが、あんな奴がいたんだぜ、こんな話があったんだ、信じられるかなんて、噂される。そんな噂は伝説になり、神話にになる。きっと読者はそのようにしか生きることのできない作中人物たちの中に自分の姿を見出すにちがいない。マスコミにも身をおいたラードナーが当時のリアルなアメリカ人像を市井の人々が噂話でもするかのように語ってみせた。その背景に原風景としてベースボールがある。
※ぼくが読んだのは福武文庫版『ラードナー傑作短篇集』。訳者は新潮文庫と同じだが、収録作は本文で言及したもののみ新潮文庫版と共通。新潮文庫版のほうが収録作が多い。短編の表記は福武文庫版によった。