日常のラベルをはがす 尾辻克彦『肌ざわり』

 何となくテレビを見ていたら、赤瀬川原平が出ていた。蟹の缶詰のラベルをくるりとはがし、それを缶の内側に貼る。再びふたを閉じる。それで「宇宙の缶詰」の完成である。「蟹缶の宇宙」。椅子やかばんなどを丸ごと包み込む梱包芸術の延長線上に出てきたというが、一瞬にして蟹缶が宇宙に変わるめまいのような快感と衝撃を今も忘れない。ハイレッドセンターを名乗った前衛芸術時代から、トマソン新解さん老人力など世間を驚かせてきた発想の根底にあるのは、視点を変えること、あるいは、価値の相対化である。赤瀬川原平の手にかかると、見慣れているはずのものが、蟹缶のラベルがくるりとはがれるように別の側面を見せる。
『肌ざわり』はそんな発想の天才赤瀬川原平尾辻克彦名義で書いた最初の短編集である。表題作「肌ざわり」「虫の墓場」「闇のヘルペス」など七つの連作短編が収められている。小学生の娘胡桃子と「私」。父子家庭の穏やかな日常を描く短編、とひとまずは言っておこう。要約するなら、初めての散髪屋はドキドキする(「肌ざわり」)、目に虫が入った(「虫の墓場」)、熱が出て唇がブクブクに腫れちゃった(「闇のヘルペス」)という日常の一コマでしかないものが、読み進むうち、日常の裏側になっている。見慣れないものになっている。赤瀬川自身があとがきに書いているように、ここにいわゆる「純文学」的なステロタイプに対する冷やかしがあるのは間違いない。
 しかし、赤瀬川原平が書こうとしたのは、価値の転倒、くるりの快感だけではない。尾辻克彦という小説家がともすれば暴走する美術家をしっかり監視している。小説の中でその役割を担っているのは、胡桃子だ。「ぶー、何それ、お父さん」「お父さん、おかしいよ」。「目に虫が入った」を「目が虫に入った」といって一人おもしろがっているお父さんに適切なツッコミを入れてくれる。こんな風に日常は裏返ったり、また元に戻ったりして進んでいく。
胡桃子という作中の焦点がもう一つ作品にもたらしたのが、時間である。記憶と言ってもいい。胡桃子というときにかしこく、ときに無邪気な生き物を横目に見ながら、「私」は言いにくいことを少しずつ口にするようになる。読み始めて、すぐにあれっと思ったのは、母親への言及が全くないことだった。「虫の墓場」で「泣きながら人の頬をぶったことがある」と言った「私」に胡桃子が「それ、女の人なの?」と聞く場面がある。「それ、お母さんなの?」ではなく「それ、女の人なの?」。
私小説に代表される近代文学の肝は「母親」である。それを故意に避けているとしか思えない書きぶりで、純文学を屋根裏や縁の下から眺めようという試みに、「母親」が出てこないのはともかく、言及もされないのは徹底していると驚いた。それが、そうではなかったのだ。日常をくるくる回転させておもしろがっている「私」にも、絵学校の教師という仕事があり、離婚の過去があり、70年代の政治の季節の熱狂を過ごした人間の挫折がある。つまり、転倒も回転もしない日常が「私」に重くのしかかっているのだった。そうした事実が連作短編の後半、乾いたタッチではありながらもポツリ、ポツリと語り出される。
「内部抗争」に描かれる自転車の後ろに胡桃子を乗せたまま、うちへ帰らないことを決意する「私」の姿は、『肌ざわり』という短編集が蟹缶のラベルをはがすことばかり考えている前衛芸術家が後ろへ引っ込んで、小説家尾辻克彦が誕生した瞬間でもある。「牡蠣の季節」「冷蔵庫」という最後の二篇に登場する森一馬なる人物の「現在、左翼はどうなっているのでしょうか」という切実で、それでいて滑稽な問いかけは、そのまま前衛芸術家としての赤瀬川原平が「前衛」を「日常」の中に見失ってしまった思いを引き写しているにちがいない。そうした挫折と悔恨の重みを、ヤクザに殴られるというエピソードや、ぐにゃりとした牡蠣に託したりするのは、もうこれは手法としてオーソドックスな小説的手法そのままである。これに新鮮味はない。ないけれど、胡桃子と一緒にくるくる回る日常の裏側を覗いたり、触ったりしているうちに、重いものが出てきてしまうというのは、胸に迫るものがある。
 そういう意味で、『肌ざわり』は、日常の裏側からその重みを描く、実に手の込んだ短篇集で、意外に小説しているのだった。