蛍と蜘蛛―日常の振幅について 谷崎潤一郎『細雪』

 お正月休みはずっと『細雪』を読んでいた。でも、実感としては、『細雪』という小説の世界に自分が入るというか、本のページを開いた瞬間から自分も雪子や妙子が生きているもう一つの世界の住人になっている。『細雪』という物語が展開する世界の存在を五感に感じることができる。だから、読むというよりは、蒔岡家の人々に会いに行くという気持ちだった。
細雪』は昭和10年代の阪神間を主な舞台に、大阪の旧家である蒔岡家の四姉妹の物語が四季の移ろいとともに綴られていく。中でもなかなかいい縁談に恵まれない三女の雪子と男性との交際問題で家族を困らせる四女の妙子が物語の軸になっている。
 長女の鶴子が大阪上本町で本家を構え、次女の幸子が分家として芦屋に住んでいるので、雪子と妙子は本来上本町の本家で暮らすべきところだが、二人は鶴子の夫との折り合いが悪く、何かと理由をつけて芦屋へやってきては、いついてしまう。おとなしく言いたいこともはっきり言えない雪子はのらりくらりと、考え方が現代的で言動も直接的な妙子はきっぱりと本家と距離をおこうとする。性格や言動から肌の色まで、雪子と妙子の対照が『細雪』の魅力の一つとなっているが、二人の共通点も見逃すことはできない。それは「いやなことは絶対にしない」ということ。その頑固さと未成熟さは、最後まで変わることがなく、ときに読者をいらだたせ、ときに切なくさせる。二人は『細雪』という華麗で過酷な世界に放り込まれたみなしごのようなものなのだ。
細雪』の見どころの一つに当時の上流社会の生活ぶりがある。芝居見物や和・洋・中などのグルメなど、当時の風俗が忠実に描かれている。とくに蒔岡家の春の恒例行事となっている京都への花見旅行のくだりの華やかさ。一方で、蘆屋川、住吉川沿岸に大きな被害をもたらした洪水や台風、病気など、恐ろしい災厄も次々にやってくる。一般的に「平和な日常生活」とか「平凡な毎日」みたいな言い方をするが、そういう言い方からは不安要素がきれいに排除されている。しかし、『細雪』では花見の次の瞬間、もう泥だらけになる。だからこそ、世界の存在を実感することができる。
 そういう意味で、やはり雪子は特別な存在だということができる。彼女だけは決してけがれない。妙子の素行が悪いことが次第に明らかになり、身分が低い男と交際していることがわかると、雪子は言葉にこそ出さないが、妙子を軽蔑するようになる。姉の幸子の下着なら気にせず身に着けることがあっても、妙子のものは絶対に手を触れなかったという。ぼくはなんとなくワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を思い出したが、雪子の素行が悪いわけではないから、この連想は当たっていない。ただ、雪子の清純を保つために妙子のようなけがれを引き受ける作中人物を必要としたのかなという気がする。あるときから雪子の目の周りにシミが現れるようになり、それが濃くなったり、薄くなったりするということが、くり返し描かれることは、とても象徴的であるし、描かれない死者の世界にまで『細雪』が広がっていると言える。
 ささやかでなにげないシーンだか、忘れられないシーンがある。下巻の始めに雪子の(何度目かの)見合いをかねて幸子らは岐阜へ蛍狩りに行く。蛍狩りの翌日、幸子の娘悦子は蛍を空き缶で作った虫かごに入れてもらい、汽車に乗った。

  「あ、悦ちゃん、ちょっと見てご覧。――」
   と、又その缶を悦子の方へ差し出しながら、
  「――何や知らん、蛍でないもんが沢山這入ってるらしい。……」
   悦子も中を覗いて見て、
  「蜘蛛やわ、こいちゃん」
  「ほんに。……」
   そう云っているうちに、米粒ほどな小さい可愛らしい蜘蛛が蛍のあと
   からぞろぞろつながって這い出して来た。
  「あ、大変々々」
   妙子が缶を腰掛に放り出して立ち上がると、悦子も立ち上がり、
  幸子も雪子も目を覚ました。
  「何やねん、こいさん
  「蜘蛛々々、……」
   小さい蜘蛛に交って物凄く大きいものも這い出して来たので、とうと
   う四人総立ちになった。

 このような一見他愛もない場面が『細雪』の世界を生き生きとしたものにしているし、同時に前夜あんなに美しかった蛍が蜘蛛に化けて出てくるというおかしく不気味でもあるエピソードが『細雪』という世界における「日常」の意味を象徴している。