日常に落ちる影 山本昌代『手紙』

 ずっと続くもの、たいくつなもの、それが日常だと思っていたというより、思い込もうとしていた。最近、病気して、日常がくるりと回転していつもと違う顔をみせた。それを非日常と言ってもいいけど、ある日大きく変わるのはあくまで結果であって、変化の種はすでに日常の中にある。あるけど、それに気がつかない(ふりをしている)。こわいからだ。
 淡々とした日常に不意に影がさす。その程度の日の陰りとして描かれるものもあれば、目をそむけたくなるような暴力がむき出しになることもある。作品によって程度の差はあるが、山本昌代が描いてきたのは、せんじ詰めれば、こういうことかなと思う。山本昌代には主に江戸時代に取材した時代物と闇を抱えた家族の日常を淡々と描く作品の系列がある。本書『手紙』は後者の系列の中短編集。表題作「手紙」をはじめ、「マスターウォーカーズ」「鷺」「橋」など、どれも地味で沈んだ色を基調としたような日々が次第に変化する。あるいは、変化の兆しが見える。
「歩こう会」に参加する初老の男性が主人公の「マスターウォーカーズ」は、元気に見えていた者が突然、病に倒れたり、亡くなったりして、「歩こう会」主催のウォーキングイベントで男のとなりを歩く者が変わっていく。変化はあるが、しかし、一定の歩調で歩く。「マスターウォーカーズ」の場合、初老の男が主人公であるだけに、自分も含めた身辺の変化は想定済みのようなところがあって、それが主人公の歩みの力強さに重なっている。
 一方「手紙」は、中年の男性作家のポケットから桜の花びらといっしょに「I love you」と書かれた紙切れが出てくるという奇妙な話。中年作家は、それをいぶかりながらもどうかして合理的に説明をつけようとする。これは明らかに中年作家が(あるいは中年作家に代表される現代人のメンタリティーが)、変化の兆しがあるのに、それをなめているのであって、紙片は他界からの呼び声であるなどということは、毫も考えない。しかし、考えないぶん、あっちからの誘いにたやすくひかかる、いわばセイレンの歌声に何の警戒心もなく耳を傾けるようなものだ。
『手紙』に描かれる日の陰りのようなものは、こわい。でも、ほんとうにそうか。こわいのではなく、そういうものに不感症になっているので、わからないだけなのかもしれない。

 山本昌代の代表作は映画化された『居酒屋ゆうれい』(1991)や三島賞受賞作『緑色の濁ったお茶あるいは幸福の散歩道』(1994)などだろう。特に『緑色』は描かれた家族の日常の背後に感じられる闇の広がりが恐ろしいほどだった。当時、山本昌代はこれからどんな作家になっていくのか楽しみにしていたが、『手紙』(2001)を最後に新作の発表はない。
<収録作>
「十二階」
「マスターウォーカーズ」
「橋」
「鷺」
「手紙」