明快な古典案内 山口仲美『日本語の古典』

「古典は、読んだとき、それについて自分がそれまでに抱いていたイメージとあまりにかけ離れているので、びっくりする、そんな書物である。古典を読むときは、できるだけその本について書かれた文献目録や脚注、解釈を読まないで、原点を直接読むべきである」(『なぜ古典を読むのか』須賀敦子訳)
 イタロ・カルヴィーノはこのように述べ、ガイドブックや注釈書ではなく、直接原典を読むことの重要性を指摘しているが、そんな当のカルヴィーノがそれを述べているのは、欧米の古典を縦横に紹介する本なのだった。
 山口仲美は本書『日本語の古典』のまえがきで、古典が顧みられなくなった現代を「もったいない」と嘆き、なぜ古典を読まなければならないかを論じている。ぼくが思うに、ろくに古典を読まないのは、現代人がいそがしいということだけでなく、古文が読めないからだ。高校時代、古典文法に苦しんで以来、古文とは縁のない生活を送ってきた。今、こうして40を過ぎてから、ガイドブック的な本を手にするのも、古典のこと何にも知らないといううしろめたさと、直接原典を手にするこわさのせいだ。現代の古典事情は矛盾に満ちている。
 山口仲美の専門は日本語学。日本語史、擬声語研究で知られ『暮らしの言葉擬音語擬態語辞典』という労作もある。だから、というわけでもないのだろうが、文学を専門にしている学者の文章と違って、論旨が非常に明快である。『古事記』から始まって、『枕草子』『源氏物語』『平家物語』『雨月物語』など、日本文学史に残る古典30作品を紹介している。一作品に必ず一テーマを設けており、たとえば『徒然草』の場合「兼好法師は女嫌いなのか」というテーマを設け、それを解明するという形で話が進む。もう一つ、必ず原典からの引用があり、原文にこだわっているという特徴がある。ほんの短い一節でも、やはり原文を読むというのは、違う。
 日本最初の短編集『堤中納言物語』の「虫めづる姫君」とか、継子いじめの物語『落窪物語』、昭和25年に初めて全文が公になった愛欲告白日記『とはずがたり』、下ネタ満載の『東海道中膝栗毛』などなど、どれも興味深いのだけど、次に引用するのは『曽根崎心中』のお初と徳兵衛があの世で夫婦になることを夢見ての道行の場面。原文でなければだめという好例。
「此の世のなごり。夜もなごり。死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜。一足づつに消えてゆく。夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば、暁の七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の。鐘のひびきの聞き納め。寂滅為楽と響くなり。」