流れ出す水 藤野千夜『主婦と恋愛』

 主婦のチエミは結婚4年目の31歳。夫の忠彦は6つ年上の高校教師。子供なし。平凡な結婚生活に変化をもたらしたのは2002年の日韓共催のサッカーW杯。その夏、チエミはサッカー観戦をきっかけに、つぎつぎに新しい知り合いが増える。ルックスはかなりイケてるのに「メールしてもいいっすか」みたいな話し方をするOLワカナちゃん(26歳)。チエミと同い年のフリーカメラマン、サカマキさん。気が付くと、4人でサッカーをテレビ観戦したりしています。
 ついこの間まで他人だった人たちとこんな風に過ごすなんて、不思議。そこにはさわやかな笑顔のサカマキさんもいる。チエミはサカマキさんに淡い恋心を抱くようになります。
 結婚生活にきざす不安の影。サカマキさんたちと知り合う前、チエミは外出しようとすると、洗面所の蛇口をきちんとしめたかどうか気になってしまう時期があった。「洗面台から水があふれ出て、それが廊下に流れ出すイメージだけは、くっきり具体的に思い浮かべることができた」
 問題は水がどこから来るのかということだと思うのです。サカマキさんが撮った写真の中で、チエミがいちばん気に入ったというのは、公園の水辺の写真。「たっぷりとした水面が穏やかに白く輝いて、ただ土と緑に囲まれていた」
 いつまでも変わらないように見える日常でも、意外なくらい強く向こうから語りかけられている。お祭りのようにわき立つW杯の空気の中で、チエミはそのことばに少しだけ耳を傾けたのだと、そんなふうに思うのです。