光と波紋 朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』

「なんで高校のクラスって、こんなにもわかりやすく人間が階層化されるんだろう。男子のトップグループ、女子のトップグループ、あとまあそれ以外。ぱっと見て一瞬でわかってしまう。」
 ブラスバンド部部長・沢島亜矢はこう考える。「ピンクが似合う女の子って、きっと、勝っている。すでに、何かに。」とも。朝井リョウの描く高校生たちの人間関係は、まるで厳しい身分制度があるみたいだ。彼らの価値を決める尺度は、成績のように数字で示されるわけでもなく、教師からの評価でもない(教師の影響力はとても小さい)。でも「ぱっと見て一瞬でわかってしまう」ほど、自明のもの。
 菊池宏樹、小泉風助、沢島亜矢、前田涼也、宮部実果(文庫版では、これに「東原かすみ〜14歳」が加えられている)と登場人物の名がそのままタイトルになった連作短編に、バレーボール部をやめた桐島は登場しない。部活をやめた「桐島」という名は小さな池の波紋のようにひろがり、彼らに何らかの影響をおよぼしていく。彼らの世界はとても小さい。
 クラスで「目立たない人」のグループに属する前田涼也は、映画が好きだ。映画部で撮った『陽炎〜いつまでも君を待つ〜』がコンクールで賞を受賞した。「タイトルやべー」などと失笑を買いながらも、前田たちは新作に意欲を燃やす。そのとき「目立つ人」菊池との接触が生じるし、「でもなんかあの映画部? の人? めっちゃダサくて女子みんな爆笑やったんよー」と笑う彼女を菊池は「かわいそう」だと思いもする。実は上も下も苦しんでいる。価値の尺度がひとつしかない世界では、人は結局のところ囚われているのだ(つまり、守られてもいるということだけど)。『桐島、部活やめるってよ』の読後感がとてもすがすがしいのは、彼らが「好き」という単純な気持ちで何かをしようとするからである。彼らが本気で何かをしようとするとき、階層化された人間関係に風穴が開く。
 もう一つ印象的なのが、くりかえし描かれる光の場面。映画を撮る前田涼也はカメラのレンズ越しに光をとらえようとする。沢島も菊池も夕日を見る。「夕陽が、山の稜線をじんわりと消していく。徐々に、山をかたどっていた線が、空の中に溶けていく。ひかりが、山を夕空の中へと編みこんでいる。」『桐島、部活やめるってよ』の世界に等しくさす光は、象徴化されたものではなく、ほんとうのただのひかりなのである。
 高校生を主人公にした小説をこのブログでもいくつか読んだ。教養小説的な山田詠美、感覚を書くのに優れた江國香織、生き方としてのキャラに着目した白岩玄など。朝井リョウは個人と社会という古典的テーマを描く、折り目正しい青春文学。しかし、高校という舞台の外からさす光を描くことによって、単純な図式をこえた「世界」を感じさせることに成功している。