アンパンマンは中世的? ホイジンガ『中世の秋』

 中世ヨーロッパと聞いて何を思い浮かべるだろうか。騎士道精神、王侯貴族の宮廷生活、教会の権威、魔女狩り…。いくつか単語が断片的に浮かぶ程度。そんなぼくが読んでもおもしろいのが、歴史家ホイジンガによる『中世の秋』。『中世の秋』は中世後期の人々の考え方や感じ方、行動様式を豊富なエピソードや具体例を通して捉えようとする試みである。ぼくが興味を持った二つのポイントを紹介したい。
 まず、特徴的なのは、中世人の両極端に分裂した精神のありようだ。
「中世人の意識にあっては、いわば、ふたつの人生観が、よりそって存在していたのである。敬虔にして禁欲的な人生観は、すべての道徳感情を、おのれの側にひきつけた。それに反発するかのように世俗的人生観は、ますます奔放に、悪魔にすっかり身をゆだねることになった。」(下巻p15)
 一つの例としてある王のおおげさな謙譲の表現が挙げられている。聖者の影響下に世を捨てた王は、いつも乞食同然の格好で肥桶に揺られて入城した。王に続いて絢爛豪華な装いをした家来の一行が従っていたという。このような中世人の精神構造についてホイジンガは、振り子の針が両極に振れるようにかろうじて均衡を保っていたといい、「ほとんどわたしたちには理解しがたい矛盾は、そのまま矛盾としてうけとるべきである」と書いている。このような精神構造の成立する背景に、神の存在、というか生活の隅々にまで浸透していたキリスト教や教会の権威があるのは、言うまでもない。本書には、驚愕エピソードが満載でそれだけでも楽しめる。
 もう一つは、世界を把握する方法としての象徴主義である。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります」(コリント人への手紙第一13の12)。ホイジンガは聖書の一節を引き、これを中世の精神が知っていた大いなる真理だとする。すなわち、この世は不条理であっても、「すべての事物は、その存在の糸をはるかにたどれば、かならず彼岸の世界につながるということ」を中世の人々は決して忘れなかったと述べている。「葉末にかかる雨の音、卓上を照らすランプのあかり、こういった日常生活の、ごくあたりまえのプロセスをきっかけに、日常の思考行動の意味の範囲をつきぬけた、より深い知覚へといたること」。こうした知覚のありようが象徴主義という巨大な体系へと発展し、さらにはアレゴリーへと移行していった。
 このようなプリミティブな世界理解のしかたは、近代においては自明の因果論の成長の妨げともなったという。ぼくがおもしろいと思ったのは、因果関係以外の物事の理解のしかたをする人々がいたんだということ、そうした世界構造を基盤とした社会があったということである。そんなことはあたりまえだといわれそうだけど、それをリアルに感じられた。存在や概念は擬人化される。13世紀フランスのエロティシズム文化の百科全書ともいわれる寓意的物語『ばら物語』は愛、歓喜、美、危険、悪、恐怖、恥、理性といった概念が擬人化されて登場する。これを読みながら、この感じ、どっかであったようなと思ったら、ハッと思い浮かんだ。アンパンマン