描写すること 国木田独歩『武蔵野』

「秋九月中旬というころ、一日自分がさる樺の林の中に座していたことが有ッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま暖かな日かげも射してまことに気まぐれな空合い。あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思うと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、無理に押し分けたような雲間から澄みて怜悧(さか)し気に見える人の目の如くに朗かに晴れた蒼空がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上で幽かに戦いだのだが、その音を聞いたばかりでも季節は知られた。それは春先する、面白そうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌りでもなかったが、只漸く聞取れるか聞取れぬ程のしめやかな私語(ささやき)の声であった(…)」
 まだまだ続くのだが、このへんでやめておこう。これは短編集『武蔵野』の表題作「武蔵野」の中に引用されているツルゲーネフ猟人日記』の一編「あいびき」の冒頭で、翻訳は二葉亭四迷による。国木田独歩は、自分が落葉林の趣きを理解できたのは、ツルゲーネフの叙景の筆力に負うところが大きいと書いている。そうして、二葉亭の翻訳による「あいびき」に触発される形で誕生したのが『武蔵野』ということになるだろう。
 短編「武蔵野」はほぼ全編が武蔵野の自然の描写からなる。自然を描写することとともに国木田独歩が「武蔵野」で行ったのは、武蔵野という地域をくぎること、言い換えれば、「郊外」を確定することである。
「(…)郊外の林地田圃に突入する処の、市街ともつかず宿駅ともつかず、一種の生活と一種の自然を配合して一種の光景を呈している場処を描写することが、頗る自分の詩興を喚び起すも妙ではないか。なぜ斯様な場処が我等の感を惹くのだろうか。自分は一言にして答えることが出来る。即ち斯様な町外れの光景は何となく人をして社会というものの縮図でも見るような思をなさしむるからであろう」(「武蔵野」)
 こうした考えから国木田独歩は「郊外」「忘れえぬ人々」といった短編を書いており、文庫の解説にもあるように日本文学における郊外は『武蔵野』から始まったと言えるのだろう。そういう意味で、二葉亭が『浮雲』で試みた言文一致体のように、『武蔵野』もまた画期的な意味を持つ作品である。で、それを認めたうえで、率直な感想を言うと、この短編集には吐き気がするようないやらしさがある。たとえば「忘れえぬ人々」で見せる名もなき人々に対する感傷的な視線。「忘れえぬ人々」では、ツルゲーネフ農奴に対する視線とは全く違う、無邪気な感傷性に終始している。どうしてこうなってしまうのか。
「武蔵野」に次のようなエピソードがある。ある夏のこと、友人と二人で武蔵野を散歩していると茶店の婆さんにどうしてそんな季節外れに散歩しているのかと問われる。作者は夏の郊外の散歩のおもしろさを説くが「東京の人は呑気だという一言で消されて仕了った」
 郊外の誕生には、当然東京という特権的な場が不可欠な条件であるが、語り手は自分も見られる人であること、「忘れえぬ人々」から見たら「呑気な東京人」でしかないことをすっかり忘れているのである。