語ること、生きること ツルゲーネフ『猟人日記』

帝政ロシア時代の貧しい農奴の生活を写実的に描いた連作中短編集。ツルゲーネフ農奴制を批判したとして逮捕されるが、アレクサンドル2世による農奴解放という決断に大きな影響を与えた…。『猟人日記』に対する一般的な認識はだいたいこんなところだろうか。
 しかし、実際に読んでみると、かなり印象が違う。確かに農民たちの貧しい生活を克明に描いた短編もあるが、猟師、医者、地主、貴族、知識人など様々な階層が物語の主人公になり、身分違いの恋や病気、奇行、激しい葛藤、別れ、死といったあらゆる生の諸相を描き出したいという異様な情熱に支えられている。広大なロシアの厳しく美しい自然を背景にした物語は、ときに写実の針が振り切れて、20世紀に生まれたラテンアメリカマジック・リアリズム小説にも通じるように感じる瞬間さえある。
猟人日記』のおもしろさは、「語る」という行為そのもののありかたが揺れていることだ。語り手「私」は農奴制における特権階級である地主である。彼はエルモライという猟師を引き連れて日々狩猟に明け暮れるが、そうした生活だけでなく、作中における語り手としての「私」の位置は、「私」が地主であることによって保証されている。つまり、『猟人日記』の農奴に対する同情的な視線は、「私」が農奴でないことから生じている。「観察」や「描写」あるいは「記述」はその対象を生きている者にはできない。語り手の祖父は他人の土地を無理やり奪い取ってのし上がった人物であり、不服を申し立てた者には折檻を加え、生きて帰らせてもらえるのにお礼を言えとまで要求した(「郷士オシャニコフ」)。語り手は冷静で温和な人物に描かれているが、彼の財産はこうした暴力によって築かれたものである。また、馬車の故障で立ち寄った小さな村の小人カシャンが語り手の狩猟を無益な殺生だと言ってののしる場面もあり、「私」本人の暴力性も浮き彫りにされる(「クラシーワヤ・メーチャのカシャン」)。
ツルゲーネフは観察者の特権的な位置について自覚的であると同時に、語り手の役割を逸脱させたり、語り手がいないかのように見える短編も書いている。二葉亭四迷の翻訳で有名な一編「あいびき」は、森の中で行われている逢引を偶然見てしまう話。別れを告げられ悲しむ女の前に語り手であったはずの私がぬっと現れ、女はあわてて逃げていく。「チェルトプハーノフの最後」は、「私」が知りようもない主人公の心理的葛藤や苦悩が描写され、他の中短編とは明らかに異なる体裁で書かれている。真夜中に馬車で走っていた「私」が追いはぎのグループに狙われる「音がする!」(サスペンス感がすごい)とともに、『猟人日記』の短編中、最も印象的だった。
猟人日記』はこうした「語り手」の位置のゆれによって、「私」もまた矛盾にみちた現実を生きる者に過ぎないことを印象付け、作品にふしぎなリアリティを与えている。(翻訳は角川文庫版の中山省三郎訳)