夢という回路 西郷信綱『古代人と夢』

 西郷信綱の『古代人と夢』は、昔の人は夢をこんなふうに考えていたのかという新鮮な驚きに満ちている。王位継承者を夢で決めたり、夢の中に現れた観音様のお告げを信じたり、夢の売り買いまでする人々がいた。西郷は夢を主題化することによって「人間的な何かを忘却のなかから想い出すよすがにしてみたい」という。それにしても、夢を信じる、言い換えれば、夢ももう一つの現実であるという認識は、どのように生じるのだろうか。
 西郷がくりかえし強調するのは、夢の他者性である。夢は自分のものではなく、「人間が神々と交わる回路」であり、「神や仏という他者が人間に見させるもの」だという。
「住の江の岸による浪よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ」(藤原敏行朝臣
 夢の中でさえ恋しい人が通ってきてくれないことを嘆くこの歌の背景には、夢には魂の通う路があるという考え、あるいは夢そのものが「魂の強い志向が構成したヴィジョン」であるという夢と魂の関係性がある。西郷は魂もまた自分に属するのではなく、「私は魂の保管所」であるという。
『古代人と夢』はこのような古代人の認識を固定化したものとして捉えてはいない。祭式的方法で得られた夢の解釈によって王位継承者を決める時代から個人の将来を占う時代を経て、夢が政治や個人の進路に何の影響も及ぼさなくなる時代に至るまで、夢に対する認識が時代によって移り変わっていく様子を、様々な資料を通してたどっていく夢の精神史といった側面がある。夢が魂の通い路であるという考え方の前提に、祖霊(ミタマ)という魂の集合性(ミタマとの合一と分与)があるという。
「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞみる」
そうした中で西郷は『和泉式部歌集』の有名な歌を引き、「平安時代の危機的心象風景を一首のうちに圧縮した作だが、多くの蛍が闇にとびかっているのを、物思いに砕け散るわが魂として幻視した」と述べている。「個と全とを結ぶ古い共同対的紐帯」の解体の瞬間を精神史的事件として論じるこの一節は、本書の最もドラマチックな部分である。そこに共同体の解体という精神的危機が写し出されているとしても、飛び交う蛍に自分の魂を見る時代があったということを知るだけでもこの本を読む価値がある。