恋愛、冒険、戦争、ミステリー、あるいはだまし絵  マイケル・オンダーチェ『イギリス人の患者』

 第二次世界大戦の末期、フィレンツェの北に位置するサン・ジローラモ屋敷でハナという若い看護婦が全身にやけどを負った男を世話していた。男は「イギリス人」と名乗るが、その正体は不明。かつて尼僧院だった屋敷は、ドイツ軍に占拠された。その後、連合軍の集中砲火を浴び、一部は崩れ落ちた。ドイツ軍の敗走後、連合軍は屋敷を負傷兵を収容する病院にした。連合軍が患者を南の安全な場所に移しても、ハナとイギリス人の患者は、そのまま屋敷に残ることを選んだ。やがて患者は、戦前から北アフリカの砂漠探検に没頭していたこと、その時出会ったキャサリンという若い人妻との激しい恋について語り出す。
 このものすごく緻密で手の込んだ小説は、恋愛、冒険、戦争、ミステリーなどいろいろな顔を持っている。見る角度や見る人によって、違った絵柄に見えるだまし絵のような不思議な魅力を持った小説だ。たとえば、アルマーシーが探検に打ち込んだ砂漠は、刻一刻とその形を変えるし、かつてそこは海だったとも語られる。ハナと患者がいる屋敷は、目まぐるしく用途を変えるし、あらゆる場所にドイツ軍が仕掛けた地雷の危険がある。建物は半壊しており、部屋の中にいながら、雨が降り込み、風が吹き抜ける。こんな具合にあらゆるものが二重性を帯び、多義的なものとして読者の前に現れる。
 アカデミー賞を9部門で受賞したアンソニー・ミンゲラの映画『イングリッシュ・ペイシェント』は、小説の多義性を整理し直し、主にアルマーシーとキャサリンの恋愛を中心に作られていて、小説の「宝石のような細部を切り捨てている。あるいは、その輝きを曇らせている」と訳者を嘆かせている。でも、それはある意味当然というか、マイケル・オンダーチェの試みは、きっと何もかもが砂漠のように姿を変えていく、その様子を描くことだったのではないだろうか。捕まえることのできない小説。読んでいるときだけ、その世界にいることができる。『イギリス人の患者』はそんな傑作だと思う。