「力」を失って見えたもの ル=グウィン『帰還 ゲド戦記 最後の書』

大きなショックとともに『帰還 ゲド戦記 最後の書』(原題Tehanu, The Last Book of Earthsea)を読み終えた。ゲド戦記シリーズは1968年から72年の間に第1巻から第3巻までが発表されている。しかし、本書『帰還』の発表は1990年。第3巻から最後の書が登場するまで18年。この決して短くない時間に作者の中で何かが大きく変化したこと、それが作者にとって痛みと苦しみを伴っていたことは、想像に難くない。はっきり言えることは、この『帰還』が書かれることによって初めてゲド戦記という壮大なシリーズは本当の意味で完結したということである。
 田舎の山羊飼いの少年でしかなかったゲドが大魔法使いオジオンにその才を見出され、その後ロークの学院に学び、数々の伝説的大事業を成功させ、ついには大賢人にまでなるまでを描くシリーズ第3巻までは、才能にあふれる男が「魔法」という力を獲得する過程と、いかにその力を抑制的に使うかというのが主題の一つだった。第3巻『さいはての島へ』では、永遠の生を求める男クモが狂わせた世界の均衡を取り戻すため、エンラッドの王子アレンともに文字通りの死闘を演じたゲドは生と死の境界に開いていた穴の蓋を閉めることに成功するが、そのために持っていた魔法の力をすべて失ってしまう。これは、第3巻の時点で作者が出した「力」というものへの一定の答えであったはずだ。しかし、『帰還』においてル=グウィンが行った「力」とは何かという考察は、ぼくの想像をはるかに超えていた。
 エレス・アクベの腕環を持ってゲドとともにハブナーにやって来たテナーは、ゲドの故郷ゴンド島でしばらくオジオンのもとにいたが、その後百姓と結婚し、ゴハという名で普通の女として生活する道を選んだ。夫と死別したテナー(ゴハ)は、テルーという少女と暮らすことになる。このテルーという少女は読者を最も戸惑わせる存在にちがいない。彼女は父親とおぼしい男に犯されたあと火で焼き殺されかけたところをテナーたち村人に助けられた少女で、顔の半分は焼けただれケロイド状になっていて、いつもおびえて、ものもろくに話せないいわば呪われた少女だからである。オジオンの死後、テナーとテルーはオジオンの家で暮らすことになるが、クモとの戦いを終えたゲドが竜カレシンの背に乗ってゴンド島に帰ってくる。しかし、ゲドはかつて大賢人だったころの面影はなく、自分はもう力を失ってしまったのだと愚痴っぽく繰り返すばかりで、ハブナーで王となったアレン(レバンネン)の使者がゲドを探して訪れたときも、まるで罪人のようにこそこそと逃げ出してしまう。
 かつて大きな仕事をした人が今は悠々自適の余生を過ごすといったものではなく、第3巻までの英雄ゲドは「最後の書」において、人目を避け、逃げ隠れする罪人のようなみじめな老人として登場する。『帰還』という小説は、醜い少女と愚痴っぽい老人と何の力もない中年女の話である。そんな無力な彼らが次々と恐ろしい暴力に襲われる。ル・アルビの領主に仕える魔法使いアスペンや村の周りをうろつく無法者たちは、彼らを目の敵にしているのである。いったいなぜル=グウィンはここまで暴力に満ちた世界を書かなければならなかったのだろうか。
「真の魔法はしなけらばならないことだけをすることにある、と、そうロークでは教えられたんだよ」とゲドはテナーに言う。この言葉は、魔法という力を行使する側の理論である。力を行使する者はいつもそのとき「しなければならないことをする」。『帰還』という物語は、いつも力を行使する側だったゲドを行使される側、つまり女と子供の側に置く物語であるということだ。そのときゲドがみじめなだけでなく、罪人のように見えてしまうことはしかたがないことだろう。ル=グウィンは暴力に満ちた世界を描いたというよりは、第3巻までと同じ世界を別の視点から描いたといったほうがいいかもしれない。
原題が示しているように、『帰還』の中心的存在はテルー(テハヌー)である。顔半分にやけどの跡が醜く残ったテルーが、実は竜人間だったというのは、決して物語の便宜上の設定ではない。これは、これまで明らかにされてこなかった竜とはいったいいかなる存在かという疑問に対する作者の答えである。竜と人はかつて同じものだったという。ごくわずかだが、かつて竜が自分の祖先であったことを覚えている人間もいる。人でもあり、同時に竜でもあるというそんな存在は、人という存在が徹頭徹尾「人」であるというありようのアンチテーゼである。ぼくらは自分が人であるということを、そんなに簡単に信じてはいけない。鳥人間、虫人間、魚人間といった想像力が、人を古層とつなげてくれるからだ。三浦佑介は『古事記』が人間の起源を「青人草」とし、人と草を同格に扱っていることに注目しているが(『古事記講義』)、人が草でしかないような人間観というのが、かつてはあった。「人」という概念が、何によって形成されているのかという問いかけが、ル=グウィンの「竜人間」には込められている。オジオン(アイハル)には「竜人間」が見えた。ゲド戦記という長い物語の中で、真の魔法使いはオジオンだけだった。皮肉なことに、オジオンほど魔法という力の行使に抑制的だった魔法使いはいない。そして、オジオンだけが正しくテルー(テハヌー)の行く末を見抜いていたのである。
 テルー(テハヌー)という少女を描いて、とりあえずゲド戦記に締めくくりをつけたル=グウィンの「人」への絶望は深いが、テハヌーがカレシンに向かって私はここに残ると言ったとき、そこに読者はかすかな希望を読み取っていいのだと思う。