詩人の幻視と『猫の町』 萩原朔太郎『猫町』

 萩原朔太郎の『猫町』を思い出したのは、村上春樹の『1Q84』を読んだからだ。BOOK2第8章で主人公の天吾は認知症の父親が入院している療養施設に出かける。そのとき列車の中で天吾が読んでいたのが『猫の町』という短編小説。ドイツ人作家による作品ということになっているが、一人の男が旅先で猫の町に迷い込むという設定や山間の小さな駅で途中下車するというところは朔太郎の『猫町』と同じである。
1Q84』は、月が二つある世界、もう一つの1984年を舞台に展開する物語である。首都高速で渋滞に巻き込まれた青豆は、いわば「途中下車」する形で「1Q84年」の世界に入っていく。「1984年」と「1Q84年」。二つの世界は全く異なる別々の世界というわけではない。
 朔太郎は『猫町』の中で自分の方向音痴について述べ、同じ町が見る角度によって全く異なる世界に見えると言っている。「このように一つの物が、視線の方角を換えることで、二つの別々の面を持ってること。同じ一つの現象が、その隠された『秘密の側面』を持ってるということほど、メタフィジックの神秘を包んだ問題はない。」詩人はいう。物には「秘密の側面」があると。
 この萩原朔太郎の認識には、『猫の町』と『猫町』の設定の類似以上に重要な意味がある。BOOK1第1章のタイトルは「見かけにだまされないように」。『猫町』の「私」が足を踏み入れたのは、「上品で慎み深く、典雅でおっとりとした様子」の人々が暮らす美しい街であった。しかし、その様子はある出来事から一変してしまう。今見ているものだけが真実の姿ではない。まあ、朔太郎の幻視はいかにも詩人らしく「視線の方角」が変わるだけにしては大げさだけど。村上春樹が天吾に『猫の町』を読ませたことで、詩人の幻視へと連想が広がる。それにしても、なぜ「猫」なのだろうか。「犬」じゃだめなんでしょうか。「犬町」…。う〜ん、だめだな。