現実へ その1 穂村弘『現実入門』

 危険な書物である。二度ほど電車の中で笑いをこらえきれず、ヘンな目で見られた。『現実入門 ほんとにみんなこんなことを?』というタイトルを書店の棚で見かけた瞬間、心臓がキュッとなった。もうおもしろいに決まってる。穂村弘という作者の名前は「有名な歌人」というぐらいのぼんやりとした認識しかなかった。歌人であると同時に臆病で「人生の経験値」が低く、重大な決断を避けてきたせいで「のび太のようなつるんとした顔」している42歳独身男(連載当時)。そんな作者が献血、占い、モデルルーム見学、合コン、はとバスツアー、健康ランド、一日お父さんなどを体験する爆笑エッセイ。
ほむらさんが体験する「現実」には、二つの系列がある。一つは人生の大きな決断を迫られかねないもの(モデルルーム、一日お父さん)。もう一つは、ひどく大衆的で自分のアイデンティティが崩壊しかねないもの(はとバスツアー、健康ランド)。なんかなあ、涙なしには語れない…
 とまあ、ここで紹介を終えてもいいところなんだけど、十分笑わせてもらったお礼になぜこんなにおもしろいのかちょっと分析を加えてみたい。穂村弘がこのエッセイを連載するきっかけになったのは『世界音痴』というエッセイ集に目を止めた光文社の美人女性編集者「サクマさん」に原稿を依頼されたこと。

「ほむらさん?」
「う」
「では、献血ならどうですか」
「うーん」
「私も一緒に、やりますから」
 その言葉を聞いて、くらっと心が動く。目の前の女性と、隣同士のベッドに並んで血を抜かれるところを想像する。美しい女性と運命を共有するというヴィジョンにうっとりする。
「うーん、では献血なら……」
 サクマさんの目がきらきらしている。だが、これは恋ではない。あくまでも職業的な情熱だ、と私は自分に云い聞かせる。そうだろう、現実よ。どこかでみている誰かよ。               (「現実だな、現実って感じ」)

 「ほむらさん」の「現実」の半分は妄想でできている。これは何もめずらしいことではなく、誰もが日常生活の中でやっていることだ。ほむらさんにできて、フツーの人ができないのは、それを意識化し記述することである。それは占い体験で半ば種明かしされている。人気占い師「りそな姫」(りそな銀行の裏でやってる)は、冷静に聞けば特別なことは何も言っていない、にもかかわらずクールビューティーサクマさんがりそな姫の言葉に満面の笑みを浮かべてうなずいている。サクマさんを喜ばせているのは、プロ占い師としての身振りや話芸。りそな姫と同じく、ほむらさんもつねに私を裏切る恐ろしい現実の衝撃を和らげ、妄想として語る話芸を身に着けている。
 もう一つ、見逃してならないのが解説で江國香織も言及しているとおりサクマさんという女性編集者の造形である。彼女の、ときに冷静な、ときに子供を見守るかのような優しい視線がほむらさんの妄想の暴走を相対化する。サクマさんはほとんどすべてのほむらさんの体験につきあっている。このような二人組はドン・キホーテサンチョ・パンサのように物語の基本である。とすれば、この本はもう半分ぐらい小説だといっていいんじゃないだろうか。
 笑って、泣いて。読後感はやっぱりビルドゥングス。現実へ一歩。