言葉と世界 ボルヘス『砂の本』

 文庫の解説者土岐恒二によると、ボルヘスの論文「ジョン・ウィルキンズの分析的言語」は、奇妙な動物分類に関する中国の架空の百科事典の記述を引いているという。それは次のようなものだ。

(a)皇帝に属するもの、(b)芳香を発するもの、(c)調教されたもの、(d)幼豚、(e)人魚、(f)架空のもの、(g)野良犬、(h)この分類に含まれるもの、(i)狂ったように震えているもの、(j)無数のもの、(k)立派な駱駝の刷毛を引きずっているもの、(l)その他のもの、(m)花瓶を割ったばかりのもの、(n)遠くで見ると蠅に似ているもの。

 合理的なものの見方に慣れている目から見ると、何がなんだかわからないこの分類は、言葉によって世界を記述するというのはもしかするとこういうことかもしれない、つまり、言葉の意味という自明であるかのように考えていたものから離れることによって、世界の記述が可能なのかもしれないという夢想を抱かせてくれる。
 内田百閒は飼い猫のノラがいなくなったとき、次のようなチラシを作り、猫を探した。

1雄猫 2背は薄赤の虎ブチで白い毛が多い 3腹部は純白 4大ぶり、一貫目以上あったが痩せているかもしれない 5顔や目つきがやさしい 6眼は青くない 7ひげが長い 8生後一年半余り、9ノラと呼べば返事をする

 ここには単に猫の特徴以上のものが描写されていて、ボルヘスの動物分類ほどではないにしても、その遠いこだまのようなものが響いている。こういうものを読む体験とはいったい何なんだろう。言葉によって、世界に触れている感じがする。というか、言葉の網からぼろぼろと世界がこぼれる感じ?『砂の本』に戻ると、集中の白眉はボルヘス自身が「野心的」という「会議」。まさに言葉と世界をめぐる物語。