ぼくは石川くんのことを勘違いしていたみたいです。いや、もう少し正確に言えば、石川くんのことを積極的に知ろうとしたことがなかった。この本を読むまで、ぼくが知っていた石川くんの短歌は次の二首(括弧内は枡野浩一訳)。
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心
(十五歳/お城の草に寝ころんで/空に吸われてしまった心)
ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく
(ふるさとのなまりはいいな/人ごみにわざわざ行って/耳をすました)
確か、中学の教科書に載ってたんじゃないかな。大人になっても少年の心を忘れない石川くん、東京に出てきて苦労しながら文学を志す石川くん、ぼくは石川啄木という歌人にそんなイメージを持っていた。国語の教師に「この停車場というのはどこの駅かわかるか」と聞かれ、答えられなかった思い出もあります。それでってわけじゃないけど、石川くんに興味を持たなかった。
二度目に石川くんに出会ったのは、高橋源一郎の『日本文学盛衰史』を読んだとき。その本の中で石川くんはテレクラにハマり、ブルセラショップの店長なんかやってるんだけど、同時に『二葉亭四迷全集』の編纂を任されたり、当時の文壇において支配的だった自然主義に公然と異を唱えるなど、とんがった、いわばキープレーヤーの一人として描かれてもいます。
今回、枡野浩一による現代語訳で石川くんの短歌を読んで、ぼくは大笑いしました(括弧内は石川啄木の元の短歌)。
一度でも俺に頭を下げさせた
やつら全員
死にますように
(一度でも我に頭を下げさせし/人みな死ねと/いのりてしこと)
真剣に犬をいじめている子供
その顔つきが
よいと思った
(真剣になりて/竹もて犬を撃つ/小児の顔を/よしと思へり)
枡野浩一によって「発見」された石川くんは、今まで出会ったどの石川くんとも違っていた。家族を函館に残して、単身上京していた石川くんは、仕送りするどころか、まとまった金が入ると「プロの女の人といちゃいちゃ」したり、金がなくなると親友の金田一くん(金田一京助)に借金したり…。「ほぼ日」連載当時、同郷の方からの「おらほどごと/そったに うおもしぇいがって/ふったつけるゾ」なんてメールが届くなか(笑)、相当なダメンズとしての石川くん像が愛情たっぷりに描き出されています。
石川くんのダメンズぶりにいろいろ迷惑かけられた人々はきっと草葉の陰で恨んでいることでしょう。最近の何でもかんでも感謝する風潮が気持ち悪いんですが、やっぱりお礼を言いたい気持ちです。いやなことがあったら、石川くんの歌を口ずさみます。今なら『ローマ字日記』やその他の散文も読めそうな気がします。その時はきっとまた違う石川くん像を「発見」できると思います。
そうそう『石川くん』に出会ってから、ささやかな「発見」がありました。うちの本棚の奥に石川啄木著『一握の砂・悲しき玩具』(新潮文庫)を見つけたのです。今、寝る前に少しずつ石川くんの歌を読んでいます。
学校の図書庫の裏の秋の草/黄なる花咲きし/今も名知らず
西風に/内丸大路の桜の葉/さかこそ散るを踏みてあそびき
こんなふるさとを懐かしむ気持ちの中にも、ちょっとかわいらしさがある歌がぼくの好みのようです。じゃあ、またね。