「ぼく」語りの系譜 庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』

 『赤頭巾ちゃん気をつけて』を読んで思ったのは、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』や、村上春樹の『風の歌を聴け』、『ノルウェイの森』にそっくりだということだ。でもたぶんそんなことは、多くの研究者が書いていることだろう。『風の歌を聴け』の後書きにあるデレク・ハートフィールド庄司薫である可能性も指摘されている。
 小説は主人公・薫くんの「ついてない日」の出来事を本人が語るという形で書かれている。彼の身にふりかかったついてない出来事には、大小がある。学園紛争の影響で東大の入試が中止になったこと。これが大。家具に足をぶつけて、親指のつめをはがしたこと。小学生の時から飼っていた犬が死んだこと。ガールフレンドとけんかしたこと。これらは小。しかし、出来事の大小というのは、だれが決めることなのか。それは出来事にかかわる当人だと言ってしまえばそれまでだが、ことはそう単純ではない。世間というものが、さまざまな既成概念をぐいぐいと押し付けてくるからだ。そういうものとの戦いのプロセスを描くのが青春文学である。
「ぼくが毎日いろんなことにぶつかり、そこで考え感じそして行動するすべては、はたからはどんなにつまらない既成概念(たとえばお行儀のいい優等生)に従っているように見えようとも、このぼく自身にとっては、それこそぼくがぼくのなかに『薫・薫・薫・薫・……』と銘をうってつみかさねてきた、ぼくの体験、ぼくの知識、ぼくの記憶、ぼくの決意、ぼくの思い出、ぼくの感動、ぼくの夢といった、つまりぼくのすべてとの或るわけの分からぬ結びつきから生まれてくるものなのだ。」
 ホールデン・コールフィールドが妹のフィービーのことを大好きだったように、薫と名乗る主人公もまた、無垢なるものにどうしようもなく惹かれてしまう。「ぼく」と語り始める主人公たちは、戦いに勝利することを望んでいないように見える、というよりも、この戦いの勝利がもたらす結果をひどくおそれているように見える。サリンジャー庄司薫もいくつかの作品を残した後、結局沈黙するのである。『赤頭巾』から10年後に登場した村上春樹は、「ぼく」語りから始めたが、沈黙することなく書き続けた。村上の「僕」は、庄司の「ぼく」よりもずっと寡黙で、語れば語るほど苦しくなることがわかっていたかのようである。時代が違う、村上の「僕」はすでに敗北しているということはやさしい。暴力が無垢の双子の兄弟であることは、「ぼく」語りの主人公たちはみんな知っている(たとえば、薫くんは自分のことを「強姦魔」だといっている。その一方で「やさしさ」について語りもするが)。
 「赤頭巾」の暗示する暴力にいちばん怯えているのは、薫くんその人である。 
(つけたし)
 ひとつ残念なのは、中公文庫版『赤頭巾ちゃん気を付けて』が改版され、表紙イラストが変わってしまったこと。1995年発行の版は、安野光雅のカバーがすごくいい。