鏡花のいちばんおいしいところ 泉鏡花『高野聖・眉かくしの霊』

 鏡花と言えば怪異譚。どれが最高傑作かなんて言い出すと大変だが、本書の二篇は鏡花のいちばんおいしいところ。旅の僧が汽車で道連れになった男に飛騨山中での不思議な体験を語る「高野聖」は明治33(1900)年、鏡花27歳の作。境賛吉と名乗る旅行者が木曽奈良井の古い旅館で幽霊を見る「眉かくしの霊」は大正13(1924)年、鏡花51歳の作。
 若い旅僧がインディー・ジョーンズさながらに蛇の野原や蛭の森を越えてようやく深山幽谷の山家にたどり着き怪異に出会うのに対して、境は宿の座敷に座したまま幽霊を見る。作品が違うのだからと言ってしまえばそれまでだが、時の流れが作者と異界との距離を縮めたようにも思える。いずれにせよ、何も出ませんでしたってことはない。出るぞ、出るぞ、出た〜!!!というのが鏡花である。
 若い旅僧が一夜の宿を求めた山家には足腰の萎えた「白痴」の少年と美しい婦人(おんな)。「都にも希な器量」「肉(しし)つきの豊かな、ふつくりとした膚(はだへ)」僧は家の裏にある渓流で「何時の間にか衣服(きもの)を脱いで全身を練絹のやうに露して居た」という女に体を流してもらう。
 (まあ、女がこんなお転婆をいたしまして、川へ落こちたら何うしませう、川下へ流れて出ましたら、村里の者が何といつて見ませうね。)
 (白桃の花だと思ひます。)

 お坊さんとはいえ、若い男。「結構な薫(かおり)のする暖い花の中へ柔かに包まれて」いるような気持ちになるのも無理はない。しかし、その誘惑には恐ろしい結果が待ちかまえている。渓流に様々な動物たちがやって来て水浴びする女に近づこうとする。女はそのたびに「あれ、不可(いけな)いよ、お客様があるぢやないかね」「畜生、お客様が見えないかい」と怒りを露わにする。「白桃の花」の女は一方で超能力を持った魔性のものでもある。
高野聖」の耽美に対して、鏡花のSM的嗜好が表れているのが「眉かくしの霊」。幽霊と虐げられた女が二重三重に重なり合う。境が宿の風呂に入ろうとすると先客がいる。どうやら女性客らしい。事情を話すと宿の者が青ざめる。実はそれが「お艶様」の幽霊。この「お艶様」と呼ばれる幽霊がなぜ出るようになったのかという因縁話を伊作という料理人が語る。それが実に奇妙な姦通(まおとこ)事件。夫を東京に残したまま、若夫人が地元に帰ってきて姑との二人暮らしを始めたが、この姑が吝嗇で傲慢なその名も「大蒜屋敷の代官婆」。あるとき大蒜屋敷に東京から夫の友人という画師(えかき)がやってきた。まんまと代官婆の仕組んだ罠にはまった若夫人は画師と二人きりでいるところに踏み込まれてしまう。若夫人は後ろ手に縛られ、裸のまま村内を連れまわされる屈辱を受ける。
 しかし、幽霊として現れるのはこの若夫人ではない。お艶はこの姦通事件に巻き込まれた画師を助けようと東京からやって来た芸者である。奈良井の鎮守のお社の奥に桔梗ヶ池という池がある。そこに「奥様」と呼ばれる幽霊が出る。奥様というのは眉を落としているからだが、お艶は私のような愛人がいながら、画師が木曽街道の女などに手を出すわけがないというはずが、自分より美しいかもしれない「奥様」がいると聞き戸惑う。「月の山の端、花の麓路、蛍の影、時雨の提灯、雪の川べりなど」、村でも見かけた者がいるという。お艶は夜道を歩く姿を「奥様」だと思い込んだ猟師に撃たれ殺される。
 懐紙で眉を隠してお歯黒のお艶は、「奥様」にぴたりと重なり合う。「奥様」についての因縁は何も語られることはない。しかし、「若夫人」「お艶」「奥様」が現世における被虐、死、幽霊の象徴として二重三重映しに現れるのである。
 「似合ひますか。」
 座敷は一面の水に見えて、雪の気はひが、白い桔梗の汀(みぎわ)に咲い たやうに畳に乱れ敷いた。
死者に会うということの意味を泉鏡花はくり返し考えた作家だった。