男が語る脱「男」 森岡正博『感じない男』

 世間に蔓延する制服フェチやロリコンの原因を「男の不感症」に求める森岡正博の『感じない男』がすごいのは、やはり男の性にまつわる体験や嗜好を徹底して一人称の主語で語っているところだろう。「男とはこういうものだ」といった表現は、発言者の顔を隠し、各々の違いを無視したところで成り立っている。しかし、性という話題について、そうした一般化をしないで語るというのは、大変な勇気がいることである。大学教員である著者が制服美少女に惹かれるとか、自分がロリコンだったことを認めるのだから、それはなおさらである。
 森岡ロリコンを「年若き少女に対して性的に惹かれる心理のこと」とした上で、さらに実際に生身の少女を性的虐待の対象にする犯罪者と、少女に性的に惹かれはするものの、生身の少女とは関わりを持たず、イメージを消費するにとどまっている男たちの二種類に分けている。森岡が考察の対象にするのは、自分もそこに含まれるとする後者の男たちである。ロリコン写真集やアイドルグループが発するサブリミナルなメッセージを詳細に検討しながら、社会のロリコン化が意味するものを考察する森岡正博は、ロリコン心理の究極を少女の内側に入り込み、思春期を内側から追体験してみたいという男の願望であると考える。
「私は不感症である」(射精のあとの空虚な感じ)こと。「私が自分の体を自己肯定できていない」(精液は汚い)こと。森岡はこの二つを根本問題と捉えている。男と女の分かれ目である中学生のころに戻って生き直したいという思いが、制服フェチやロリコンにつながっているというのだ。
 少なくとも森岡正博という人にとっては真実であろうこの考察は、ぼくにとってどのような意味を持つのか、ぼくはここに至ってはたと困ってしまった。森岡の定義によればぼくはロリコンである。しかし、不感症とか自己否定の感覚という説明にはどうもピンと来ない。もしかしたら、自分がこれまでそういうものから故意に目をそらし続けてきたということが考えられる。森岡のいう「感じない男」とは、不感症や自己否定の感覚を自分の中に隠し持っていながら、そんなものが存在しないかのようにふるまっている男のことだからである。一方で、森岡正博があくまでも自分自身の実感に基づいて書いた本書は、他人には当てはまらないということもありうる。
 ぼくはこの本を読みながら、何度か不快感を感じた。その不快感は、男というものの存在を傷つけられるような感じ。自己完結にすぎないんじゃないかという不満もある。この本は発表当時けっこう話題になったと記憶しているが、どんな文脈が多かったのだろう。これまでの男の言説は、森岡のいう「不感症」や「自己否定」を糊塗するためにあったかのような印象を受ける。男による脱「男」。そういう意味で本書の「ちゃぶ台返し」は相当なインパクトがある。