「あなた方」と語りかける語り手 ジャン・ジュネ『泥棒日記』

「裏切りと、盗みと、同性愛が、この本の本質的な主題である」というジャン・ジュネは、本書『泥棒日記』において、「あなた方」とか「あなた方の世界」という表現をくりかえし、自分が生きてきた世界と自分に悪の烙印を押し、ノーを突きつけてきた世界とをはっきり区別しようとしている。
親に捨てられた孤児として生まれ、少年時代から盗みを行うようになったジャン・ジュネは、数々の刑務所へ何度も投獄されながら、乞食、男娼、泥棒としてヨーロッパ各地を放浪する生活を二十年にわたって続けたという。自伝的作品である『泥棒日記』が特異なのは、作者が裏社会の人間として生きたことよりも、裏社会を生きた人間が同時に自分を語る「言葉」を持っていたという事実である。その「言葉」によって、一度は自分をその外へ追いやった社会/世界(「あなた方の世界」)に、その価値を転倒させ逆説的に自己を確立させるという形で、戻ってきた。
「『おれは人間たちからあまりに遠く離れてしまったから、もう彼らと一緒になる望みはない』とわたしは自分に向かって言っていた」とか「わたしは飢餓、肉体に受けた恥辱、貧窮、恐怖、卑しさしか経験しなかった、小っぽけな哀れな男であったのだ。ただ、そのような幾多のお恥ずかしい姿から、わたしは栄光の根拠を引き出したのだ」とかいった逆説的で、同時に自己言及的な「言葉」を連ねることによって、自己救済と復権を行っていたのである。
 ジュネは、彼の文学的才能によって彼のいう「あなた方の世界」に自己の存在を知らしめることができたが、そうでなければ、『泥棒日記』の他の作中人物たちのように、生涯犯罪者、泥棒として生きるしかなかっただろう。1948年に十回目の有罪宣告を受けたジュネは終身禁固となるところを、コクトーサルトルらの運動によりフランス大統領の特赦を受けたことは、まさに「言葉」の勝利だったと言える。
 ジュネは「思惟する」ことについて、次のように書いている。
「わたしの有罪性によって知への権利を獲得したのだ。わたしはよく思った、思惟する権利を持たずに思惟する人があまりにも多い、と。彼らはこの権利を、思惟することが自己の救済のために不可欠である、という底の事業によって贖ったのではない」
「思惟する権利を持たないで思惟する人」というのが、ジュネのいう「あなた方」と重なり合うことは言うまでもない。ジュネのことばの当否はともかく、「あなた方」と呼び掛けられる世界の価値観を疑いなく生きてきたわたしは、『泥棒日記』を読んで、その外から呼び掛けられたのだ。一方で「言葉」は「価値の転倒」という形で表されるのと同時に、外のものを「あなた方の世界」に取り込んでしまう両義性を持っている。