からまるロープ 福永信『コップとコッペパンとペン』

「いい湯だが電線は窓の外に延び、別の家に入り込み、そこにもまた、紙とペンとコップがある。この際どこも同じと言いたい」
 福永信の『コップとコッペパンとペン』は、こんな言葉から始まる。「1行先も予測できない!」(帯)この小説をおもしろいと思えるかどうかは、この冒頭をどう受け取るかにかかっている。なんじゃこれ、意味わからんと思ってしまったら、読み進んでもたぶん苦痛なだけのザ・現代文学だ。
 多くの近・現代文学の主題は個人の成長である。その手段として主人公たちは自分の出自や過去に向き合おうとする。父や母、祖父、祖母といった家族の系譜をたどろうとする主人公が多いのも、自分が「どこから来たのか」という物語を作るためである。
 ところが、『コップとコッペパンとペン』は冒頭で「この際、どこも同じ」と宣言しちゃってるわけで、そこから始まる家族の物語(のようなもの)は、行きつくところがないことになる。失踪した父親の行方を探すため協力してくれるはずの刑事温泉(ぬくみず)は温泉(おんせん)に入って湯気でその姿が見えないし、警察では複雑にからまったロープを抱えている男がいて「それは一本のつながったロープなのか、それとも何本かがからまっているのか」わからないし、「わきの下にロープの先端をはさんでいるが、そこからスタートしても、姿を隠しまた現れるロープをたどっているうちに確信はたちまちゆらいでしまう。しかも、それを明らかにしたところで、何になるというのか」
『コップとコッペパンとペン』はいわゆる家族物語のネガである。たどろうとしてもたどれないし、意味もない。なぜなら「どこも同じ」だから。実に現代的な問題提起だとは思う。だけど、それが小説としておもしろいのかと言うと、それはまた別の話。