「わたしは…」 吉田知子『箱の夫』

 表題作「箱の夫」を含む8篇が収録された短編集。「箱の夫」は、サルぐらいの大きさしかない夫との結婚生活を妻の視点から描いた話。夫がクラシックのコンサートに誘ってくれたので、夫を箱に入れて出かける。一見、乱歩のいう「奇妙な味」風の短編だが、読み進むうち、現代に残る閉鎖的な村社会の因習に女がからめ捕られるという構図が見えてくる。ここまでフェミニズム色の濃いものは、「箱の夫」だけだが、確固たる位置を占めているつもりの語り手の女性が、自分の立場を失ったり、自分がだれかわからなくなったりする短編が多い。
「恩珠」や「天気のいい日」は、ある出来事をきっかけに確固とした日常性が崩れ、自分が他者と同化してしまう話。「わたしは○○」と言い切れると思っていた語り手の足許は揺らぎ、最後には「わたしは…」と言いよどむ、あるいは、思いもよらない一面が浮かび上がる。
 これらの作品の発想はよくあると言えばよくあるもので、自己の中の他者性を指摘して終わりというのは、作品として中途半端かなとは思う。偏屈な書家を描いた「遺言状」や農家の屋根裏(天)に上がったまま降りてこなくなった男の話「天(アマ)」のほうが短編小説としては読みごたえがあった。
 ここで思い出すのは、今年1月にパリで起きた風刺新聞社に対するテロ事件だ。事件後、表現の自由を暴力で脅かそうとする行為に対しフランス各地でデモが行われた。そのとき彼らが掲げたスローガンは「私はシャルリー」。また、イスラム国に拘束された日本人の解放を願った人々は「I am Kenji」を掲げた。この「わたしは○○」という表現は、いずれも連帯や共感を示す表現として使われている。
 事件が報道されるまでシャルリー・エブドという新聞社のことも後藤健二さんのことも知らなかった。それにぼくは「恩珠」や「天気のいい日」の語り手のように、思いもよらないもの、暗くネガティブなものが自分の中にあるのではと思う。あなたはだれに連帯するの? と問われると、「わたしは…」と思わず口ごもってしまう。それが表現の自由の擁護や人質の解放を願う標語だとしても「わたしは○○」と言い切るのは、覚悟と勇気がいる。