感覚とことば 江國香織について

 このブログの『間宮兄弟』の感想を読んでくれた人が「そうじゃないんだけどなあ」というような不満を口にした。その人は世間の『間宮兄弟』評にも納得がいかないという。ぼくは「直美が花火大会で感じた楽しさの何%かは、本来なら彼氏とのつきあいで得るべきもの」と書いた。別に彼氏とじゃなくてもいいんじゃないか、とその人は言うのだ。確かに間宮兄弟が直美ちゃんと共有したカレーパーティーや花火大会の時間は彼らのものであって、「彼氏とのつきあいで得るべきもの」ではないかもしれない。間宮兄弟と直美ちゃんとの間には「関係」が存在した。それなのに、多くの評者がそのことに言及しない。あるいは、なかったことにする。これがその人の不満だった。
 なぜそんなふうに読んでしまうのだろうか。一つは先入観である。ぼくが「べき」という表現を使ったことからもはっきりしている。直美ちゃんのような若い女性は、彼氏と楽しい時間を過ごすものであって、間宮兄弟のようなイケてない男と「デート」するなんておかしいという考え方だ。
 もう一つは感覚とことばの問題である。江國香織の『つめたいよるに』を読み返して思ったのは、なんて感覚を書くのがうまいんだろうということだ。ところで、恋愛というは感覚だろうか、感情だろうか。恋愛感情ということばがある。恋愛感覚とは言わない。ということは、やっぱり恋愛は感情だろうと考えてしまうのは、ことばに引きずられているからだ。恋愛には感覚の部分もあるし、感情の部分もある。つまらないようだけど、これがいちばん正解に近い答えだろう。間宮兄弟と直美ちゃんが過ごした時間を「デート」と言わず、両者の関係を「恋愛」と呼ばないのは、彼らの間に共有されていたものがことばになる前の段階にとどまっていたからである。まだ「恋愛」じゃないし、まだ「恋人」じゃないというわけだ。
 ことばにされないものは、その存在を認識されにくい。また、ことばにするとその瞬間、別のものに変質してしまう。感覚をことばにするというのは、つねにそういうリスクがある。ぼくがここで感覚というのは、季節のうつろいのようなものである。感覚は一過性のものであり、人はそれをいちいちことばにしない。梅雨の終わりを感じたり、夏の前の夕暮れ空を眺めたりするけど、「もうすぐ梅雨も終わりだ」とか「夕焼けがきれいだ」とかってことは、いちいちことばにしないことが多い。言うとなんか違う感じがする。感覚はそんなふうにして、人の中を通り過ぎていく。通り過ぎれば、再び現れるまで、それを失うことになる。
 『間宮兄弟』の冒頭には、次のようにある。


 夏は、兄弟のどちらにとっても好もしい季節だった。そして、自分たちが夏を楽しめるようになったことを、互いに口に出して確認し合う。
 「美しい季節だなあ」
  とか、
 「汗をかくって気持ちいいよな」
  とか。
 
 兄弟は感覚をことばにする習慣を持っていたのである。それは感覚が感覚のままとどまることを許さない行為である。『間宮兄弟』の読者が明信と直美ちゃんとの「関係」を見過ごしがちなのは、その関係をぶち壊してしまうのがほかならぬ間宮明信その人だからだ。明信は直美ちゃんとの関係を確実なものにしようとして、交際を申し込む。そのとき、二人の関係は終わりを迎えてしまう。『間宮兄弟』の書き出しは、偶然ではないだろう。
 保坂和志は『季節の記憶』の中で次のように書いている。「恋愛もはじまりのところだけはズレだから、いくつになっても、ドキドキしたり、どぎまぎしたりするんだけど、はっきりした恋愛になったら、もうどぎまぎしない。恋愛となったらもう安定した形で、それはもう言語の中の出来事なんだから、言語の人間は簡単に馴れることができる――」
 江國香織は、こうした議論とも無縁である。消えていくものは消えるにまかせる。江國香織は、感覚とことばの微妙な関係について、ことばにすれば消えてしまうようなものを、何でもことばにしてしまううっかり兄弟の姿を通して描こうとしたのではないだろうか。