暖かさと冷たさ 小川洋子『偶然の祝福』

 小川洋子の世界は美しく冷たい。この美しさと冷たさは表裏一体で、昆虫の標本のようなもの。連作短編集『偶然の祝福』の主人公である作家は「失踪者たちの王国」について考える。
「さよならも告げず、未練も残さず、秘密の抜け道をくぐってこちらの世界から消えていった、失踪者たちが住むという王国。誰でもたやすく足を踏み入れられるという訳ではないらしい王国」(「失踪者たちの王国」)
 もちろんそれは死者たちの国であり、小川洋子の作中人物たちは、簡単にそっちへ行ってしまったり、すでにそちらの住人であったりする。
 しかし、「祝福」と題されたこの短編集には、外の世界へ出ていこうとする動きもある。「キリコさんの失敗」がそれだ。キリコさんは、主人公の「私」が11歳のとき、うちに雇われていたお手伝いさんで、肉付きのいいセクシーな女の人だった。キリコさんは探し物の名人で、「私」がなくしたものを必ず探し出してくれる。一方、「私」の母の口癖は「新しいのは買いませんからね」である。
 「私」にはいわば二人の母親がいる。一人は「私」が外へ出ていくのを促し、暖かく励ましてくれ、もう一人は禁止の言葉で、「私」を縛ろうとする。キリコさんは、「私」がなくした万年筆を取り戻したい一心で、大きな失敗をしてしまうのだが、その失敗のために、「私」は新しい世界へ踏み出すことができ、キリコさんは「私」のうちにいられなくなる。祝福というものが、誰かが未知の領域に踏み出す最初の一歩を促してくれるものだとすれば、キリコさんの失敗は、偶然の祝福である。そのときキリコさんはもういないが、「私」は書くことを肯定される。こういう暖かさ/冷たさの表現がいかにも小川洋子