愛してはいけない ジッド(ジイド)『狭き門』

 好きなものを好きと言い、嫌いなものを嫌いと言う。あたりまえのことみたいだけど、そうでもない。いちばんほしいものを目の前にして、それがほしいということができない人って、けっこういるんじゃないかと思う。たとえば、ケーキ屋さんなんかで、ショーケースを見た瞬間、いちばんほしいものが目に飛び込んでくる、それなのに、体が勝手に反応して、二番目、三番目を指さしている。「これください」と言っているぼくは、心の中で「違う。それじゃない」と叫んでいるのだ。これを聞いてばかじゃないかと思う人は幸せである。皮肉でもなんでもなく。自分で分析してみると、いちばん好きなものを好きというのが、はずかしいというか、はしなたい、品のないことなんじゃないかと思ってしまうのだ。もう少し、分析を進めると、ここには意識されざる「禁止」がある。もう一人の自分が、つねに行動を監視しているようなもの。
 『狭き門』のアリサほど、読者をいらいらさせる作中人物がいるだろうか。ジェロームの困惑や怒り、嘆きはとてもよくわかる。しかし、アリサには非常に強い「禁止」の呪縛がかけられている。それを考えると、アリサの不可解な言動も理解できる。アリサだって、気の毒な人なのだ。ジェロームへの愛が深ければ深いほど、彼を遠ざけようとする気持ちも強くなる。では、アリサに「禁止」の呪いをかけていたもの、それは何か。
 「狭き門」というタイトルは、神への道を進むこと。「主よ、あなたが示したもうその路は狭いのです―二人ならんでは通れないほど狭いのです」ここには、犠牲を徳とするキリスト教の教えがあり、彼女はそれに忠実であろうとする。しかし、このような精神のあり方が、一方でとてもエロティシズムを感じさせることは、ルイス・ブニュエルの『ナサリン』『ビリディアナ』などでもよくわかる。では、アリサに禁止の呪いをかけていたのは、主の教えなのか。もちろん、そのようにも読めるが、ジイド(ジッド)はもう一つ、仕掛けを用意している。ふしだらで官能的な魅力を備え、自分の欲求に非常に素直な女、アリサの母親の存在である。夫の留守に若い男を自室に連れ込むような母親の存在は、アリサを苦しめ、彼女に知らず知らずのうちに、恋愛と肉欲の「禁止」の呪いをかけたのである。
あるとき、母親の思い出話をしたアリサの父親は言う。
「さっき、客間にはいってきて、長椅子に横になっているお前を見たとき、わたしには、一瞬、お母さんを見ているような気持ちがしたからなんだ」
 アリサがどんなに好きなものから遠ざかろうとしても、彼女の中には、母親の存在が息づいている。アリサが潔癖であろうとした本当の理由は、結局だれもわからなかったようだ。そうでなければ、父親があのような無神経な一言をもらすはずがない。もっとも罪深いのは、案外、そうした無神経さなのかも。