犬が語る年代記 クリフォード・D・シマック『都市』

「これは、火があかあかと燃え、北風が吹きすさぶとき、犬の物語る話の数々です。どこの家庭でも、みんな炉ばたにつどい、小犬たちは黙々と坐って、話に耳をかたむけ、話が終わるといろいろな質問をします。
 たとえば、「人間ってなあに?」とか、
「都市ってなあに?とか、
「戦争ってなあに?」と、いう風に」

 クリフォード・D・シマックSF小説『都市』はこんな魅力的な書き出しで始まる。人類が滅びてから気の遠くなるような時が流れ、かつて人類が存在していた痕跡は、断片的に残る文献しかなく、それも本当にあったことなのか、単なる伝説なのかは犬の研究者の間で意見がわかれている。『都市』は、残された8つの文献を年代順に並べ、人類がどのように滅亡し、犬が地球を支配するようになったかを物語る一風変わった年代記である。いちおうは、物語の縦糸としてその時代における中心的な役割を代々果たしてきたウェブスター家の当主たちが各文献ごとの主人公のような形をとっているが、『都市』の本当の主人公たちは、つぎつぎに繰り出されるシマックの奇想天外なアイディアそのものだと言っていい。そこには、ロボットやミュータント、知性を持ち言葉を話すことができる動物たちが登場する、まさにファンタジーの世界だ。
 たぶんシマックという人は、人が築き上げてきた都市文明、物質文明というものが好きではなかったんだと思う。『都市』というタイトルを持つこの小説は、皮肉にも都市文明の崩壊から始まるが、そこに悲壮感といったものはまったくない。むしろ人間がいない世界を理想郷のように考えているふしがある。
 火星人の哲学者ジュウェインはコミュニケーションに大きな革命をもたらす哲学体系を完成させようとしていた。それは彼の病死によって未完に終わるが、のちにジュウェイン哲学に似たものは、人類が木星人になることによって実現される。木星探査のため送り込まれた研究員が体の組成を木星の環境に耐えられるように作り変えられたとき、人間の目からは異形のものにしか見えなかった木星人の能力のすばらしさと人間の認知能力の貧しさに愕然とする。「言語」などというまどろっこしい道具を介在させることなく、彼らは直接感じ、伝えることができる。人間の突然変異であるミュータントもそうだ。彼らもまたテレパシーで伝え合う。人間の文明の基礎である知識の伝達を担ってきた「言語」が、いかにも使えない道具の代表のように描かれる。未来には、そんな不便なものはいらなくなるのである。
 ところが、一方でシマックは犬に言葉を話させる。犬が地球が支配する時代が来ると、犬はあらゆる動物たちを教育、文明化し、動物のユートピアのような世界を作り出す。これは単に人間を犬に置き換えただけで、新鮮味がない。動物たちの世界には争いごとがないという発想も素朴すぎる。
 神はバベルの塔を作った不敬な人間どもに怒り、互いの言葉を理解できないように、言語をばらばらにしてしまった。人の不和のもとにそもそも言語という実に不完全な道具がある。『都市』は、奇想にあふれた壮大な年代記として十分楽しい小説だが、「言語」の描き方の矛盾点は時代(1950年代アメリカSF黄金期)の限界を感じる。