希望(仮)としての世界一周 津村記久子『ポトスライムの舟』

 

 朝起きて「仕事に行きたくない」と何度思ったことだろう。でも、その気持ちを押さえつけるために「今がいちばんの働き盛り」などという刺青を腕に彫ろうと考えるナガセの心理には相当な屈託が潜んでいるにちがいない。主人公のナガセ(長瀬由紀子)は29歳、独身、実家で母親と二人暮らし、仕事は平日の工場勤務に加えて、18:00~21:00は友人のヨシカが経営するカフェで給仕のバイト、さらに土曜日に老人向けのPC教室講師、空き時間にデータ入力の内職までしている。

 ナガセは働く。食事や睡眠以外の時間はすべてお金に換えたいと思っているかのように。なぜそんな働き方をするのか。ヒントは小説の冒頭、工場の休憩室に掲げられた二枚のポスターにある。一枚は「さるNGOが主催する世界一周のクルージング」、もう一枚は「軽うつ病患者の相互扶助を呼びかけるポスター」だった。「心の風邪に手をつなごう、みんなでつらさと向き合おう」というコピーがつけられたポスターを見て、ナガセは反射的に目をそらす。そして、あたかも救いを求めるかのようにクルージングのポスターを見上げる。

「ひととおり内容を読み、写真を、特にカヌーに乗っていた現地の少年の写真を眺めたあとは、でかでかと書かれたその代金に視線を固定していた。

一六三万円」

 津村記久子という作家の巧みさについては、多くの評者が指摘するところだ。この何気ない休憩室の描写で、ナガセが体験してきたもの、ナガセの心の中に湧き起ころうとした不穏な空気、不安、恐怖、いらだちを垣間見せ、それを必死に押さえつけ、平静を保とうとするナガセを一瞬にして浮かび上がらせる。

『ポトスライムの舟』は深層に荒れ狂う嵐を表層においていかに乗りこなし、出口らしきものを見出していくかという小説だ。

 ラインに流れてくる乳液のキャップをしめる。不良品をはじく。それだけのことをくり返す単調な仕事。ナガセは考える。

「この仕事には向いている。雑念に苛まれていない限りは。手は動いているけれど、コンベアの縁に映る顔が真っ青ということがある。それはたいてい、突然湧き上がってきた何らかの妄執に頭の中を蹂躙されている時のことだ」

 ナガセが取りつかれたように休みなく働くのは、何もしないでいる時間が怖いから。そうしなければ湧き上がってくるものに乗っ取られてしまう。津村記久子はナガセとカタカナで表記される作中人物の心中をのぞき込み、さらけ出すのでもなく、かといって、ナガセの思考に立ち入らないわけでもないという、うちと外を自在に出入りする文体を駆使する。例えば、次のくだり。

「特にラインリーダーの岡田さんはいい人で、工場での初日にガタガタ震えながらラインにやってきたナガセを心配して、何くれとなく面倒を見てくれる」

 ポイントは二つ。視点のねじれが生じている点。岡田さんをいい人だと思っているのはだれなのか。作者なのか、作中人物のナガセなのか。ナガセなら、そのあとすぐ出てくる「ナガセ」は「わたし」と表記されるべきところではないか、ということだ。

 もう一つは、「ガタガタ震えながら」という尋常でない状態をさらりと流して、出来事と読み手の間に絶妙な距離感を生んでいる点。実はそれも主語を「わたし」ではなく「ナガセ」と表記することから生じている。大変なことが起こっている(かもしれない)のに、読者はその距離感からユーモアさえ感じとる。まさに文体が出来事と心のバランスを取りながらナガセという人物の軌跡を紡いでいく。

 ポスターに描かれたカヌーに乗って波間を行くナガセ。彼女に必要なのは時間と希望だ。工場勤務によって得られる収入が世界一周クルージングの代金とほぼ一致することを知ったとき、ナガセには希望(仮)が生まれた。自分の一年を世界一周クルージングに換金する。不安と恐怖から目をそらすための単調な労働の毎日が希望(仮)を得て、出口らしきものを見出す。時間がようやく流れ出す。

 学生時代からの友人のりつ子と娘の恵奈がナガセと母親の家に転がり込んで同居することになり、その後、りつ子の夫との離婚が成立し、職を得て、独立したり、ラインリーダーの岡田さんが夫の浮気で離婚するかどうか悩んだりと、ナガセの日々の経過は様々なサイドストーリーで表される。

 中でも注目すべきなのが、ポトスライムの増殖だ。ナガセの自宅にも工場の休憩室にもヨシカのカフェにもある観葉植物は、水さえあればどんどん増えていく。「水だけでどんどん増えるってすごくないですか」とナガセは言う。ここにどれだけの象徴性を読み込んでいいのか、わからない。しかし、泣いたり、叫んだり、大げさな感情表現を禁じられたかに見えるナガセが、精一杯訴えようとしているように見えてくる。なんだかわからないけど、増えてきちゃうのだ。

 ナガセが慢性的に出ていた咳を無視して、一週間も寝込むほど風邪をこじらせるのも象徴的だ。そうした時間を経て、彼女が見出したものは、すがりつくようにして過ごした希望(仮)からの解放だ。自由というにはほど遠いが、それでも何かから目をそらさずに生きることができるのかもしれない、そう感じさせる。

 文庫に収録されているもう一篇の「十二月の窓辺」は主人公の名前こそちがうもののナガセの会社勤め時代の体験が書かれていると考えていいだろう。「ポトスライムの舟」に対して、ロスト・ゼネレーションや派遣世代を代表する文学という評価があったという。低賃金で苦しい生活をしているシングルの女性が主人公だという表面的な見方でそう呼ぶだけでなく、この小説の中でナガセが考えようとしなかったこと、必死で目をそらそうとしていたこと、それを読者が考えてはじめてお仕事小説としての本書が完結する。ロスト・ゼネレーションってそういうことじゃないのか。津村記久子という作家はつくづくうまい。

記録する その2 ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』

 

「序文」にあるように15年間に渡って麻薬中毒だったウィリアム・バロウズは「病とその譫妄状態について詳しい記録」を取っておいたというが、その文学的あるいは反文学的記述、それが『裸のランチ』である。タイトルの考案者はバロウズらとともにビート・ジェネレーションを代表するジャック・ケルアック。ケルアックは『路上(オン・ザ・ロード)』を執筆する際、タイプライターの用紙交換を嫌って、長くつなぎ合わせた用紙を使用し、執筆時の即興性を大事にしたという話があるが、バロウズの場合さらに過激で解説(山形浩生)では「雑多なセクションがいい加減な順番で印刷所にまわされ、ゲラができた時点で構成を考えるはずだったが、その出鱈目な順番が『なんとなくいい感じ』だったのでそのまま使った」というエピソードが紹介されている。

 ストーリーらしいストーリーはない。はじめからそういうものを書こうとも思っていないことは上のエピソードからも明らかだが、いくつかの傾向はある。

1.麻薬中毒者の妄想、悪夢のようなもの

2.麻薬を取り締まる行政、警察関係者に追われる話

3.ホモセクシュアル傾向の強いポルノ(エログロ+詩的イメージ)

4.病院・厚生施設などで治療を受けているもの

5.麻薬への渇望と使用感などの具体的描写

6.インターゾーンなる市域を中心にしたSF的描写

 このような断片化した悪夢的イメージの脈絡ない集積。ストーリー性の拒否はケルアックの『路上(オン・ザ・ロード)』にもあったが、バロウズはより意識的に方法論として取り入れている。『裸のランチ』という小説は麻薬を扱っている性質上、悪夢的イメージの頻出は納得できるが、もう一つ興味深いと感じたのが、麻薬や中毒患者に対する管理者側の描写が多く、管理者側の常軌を逸したふるまいが本書を特徴づけていることだ。

 管理者/支配者は管理下にある者の逸脱行為に対応するとき最もよくその本質をむき出しにする。麻薬は支配と被支配の関係性において、取り締まりの対象ともなり、アヘン戦争などの歴史を見てもわかるように、支配の道具ともなる両義的なものである。そういう意味で管理者/支配者側が最も敏感に反応するのが、麻薬とその使用者だろう。麻薬を使用することそのものを肯定するつもりはないが、バロウズのいうように「作家が書くことができるものは、ただ一つ、書く瞬間に自分の感覚の前にあるものだけ」であり、「私は記録する機械だ」(引用:訳者あとがき)というなら、『裸のランチ』という作品は、当時の政治状況にノーを突き付けた中毒者の「記録」にほかならない。

記録する その1 ケルアック『路上(オン・ザ・ロード)』

 

 最初に思ったのは、フィクションというより、記録文学だということだ。ビート・ジェネレーションの代表作『路上(オン・ザ・ロード)』にケルアック自身の体験が反映されており、主要な作中人物にモデルがあったことはよく知られている。「記録」というのは実際にあったことがこの小説に書かれているという意味でもあるが、語り手「ぼく」(サル・パラダイス)の日記を読んでいるような気がしたことと、そして、サル・パラダイスはディーンという向こう見ずでトリックスター的な人物の忠実な記録者に見えたからである。

 第一次世界大戦後に現れたロスト・ジェネレーションと呼ばれる作家たち、ヘミングウェイフィッツジェラルドの小説を読むと、彼らが大きな喪失感を抱えていたことがわかる。そして、その喪失感が物語を紡ぎ出す原動力となっていたことも。少なくともロスト・ジェネレーションの作家は、失ったものをめぐる物語を書くことができた。

 その20年~30年後、第二次世界大戦を経て登場したビート・ジェネレーションの作家たちは構成の整った物語を書くことを拒否した。これまでの価値観を支えていた大きな物語が欺瞞でしかないなら、さしあたってそれをbeatするしかないわけだが、『路上』は、ディーンと「ぼく」(サル)ら仲間たちがアメリカ大陸を幾度となく横断しながら、アルコール、ドラッグ、セックス、ジャズ、ときどき日銭を稼ぐ肉体労働に明け暮れる。誤解を恐れずに言えば、ここにあるのは実に退屈な反復運動のようなものだ。

 彼らが何かを求めているとすれば、退屈な反復運動を超えるスピード、そして、何物にも還元できない特別な瞬間だろう。ディーンが好んで出かけていくナイトクラブで明け方まで演奏されるビバップの高揚感の中にそんな瞬間があったのかもしれない。しかし、翌朝にはまた食うにも事欠く灰色の日常が彼らに追いすがる。

 特異な人物を描くためには、記録者がいる。記録し、語るのは平凡な人間の仕事だからだ。ディーンには身寄りがおらず、子供のころ行き別れた浮浪者の父親を捜し続けているが、「ぼく」はやさしい叔母さんにたびたび旅費を無心している。ディーンは「ぼく」を振り回し、ときに厄介ごとに巻き込みもしたが、「ぼく」はディーンという果実を受け取った。ディーンという粗野で身勝手で破滅的な人物はあとに何も残さない。権威から最も遠いところ、つまり「路上」にいるのが彼だ。ディーンの影のように彼のそばにいて、その言動を逐一観察していたのが「ぼく」というわけだ。おそらく「ぼく」はディーンに灰色の日常を追い越せる無謀なスピードを期待していたのだろう。おかげでぼくらは今、当時の空気を感じることができる。

付記:読んだのは福田実訳『路上』(河出文庫

物語と意識の果て 伊藤計劃『ハーモニー』

(ネタバレ)昭和が話題になることがある。戦前の話ではなく、五十年ほど前のこと。電車の中でタバコが吸えたとか、トイレが汲み取り式だったとか。セクハラ、パワハラみたいな言葉も普及していなかったとか。今は除菌スプレーをところかまわずまき散らし、トイレがおしりを洗ってくれる。社会は確実に心身ともに清潔で健康に向かっている。新型コロナウイルスの感染拡大で、この流れはさらに加速した。

〈大災禍〉と呼ばれる大虐殺時代後に作り出された超健康社会を描く伊藤計劃の『ハーモニー』はこうした社会が指向する先を可視化した。ジョージ・オーウェルの古典的ディストピア小説1984年』やハクスレーの『すばらしい世界』(本文に言及あり)などの延長線上にあって、人間の主体性を問う『虐殺器官』の「ある種の続編」(伊藤計劃)ともなっている。

〈大災禍〉後の統治機構は国(政府)ではなく、医療合意共同体いわゆる「生府」で、「生府」の構成員は成人になると人体の恒常性を監視するWatchMeを体内に取り入れる。さらに個人用医療薬精製システム(メディケア)が作る物質によって、世の中からあらゆる病気が消え去った。

 御冷ミァハは言う。

「むかしはね、そういう何千って小さな病気が人体には溢れてたんだ。誰でも病気にかかった。たった半世紀前のことだよ」

 御冷ミァハは特別な女の子だった。霧慧トァン(語り手「わたし」)、零下堂キアンにいつも危険な危険な思想を吹き込んだ。「わたしたちはありとあらゆる身体的状況を医学の言葉にして、生府の慈愛に満ちた評議員に明け渡してしまうことになるのよ」「自分のカラダが、奴らの言葉に置き換えられていくなんて、そんなことに我慢できる……」「わたしは、まっぴらよ」

 奪われている。奴らの好きにはさせない。問題は奪われているのが、「生」そのものであるということだ。ミァハがトァンとキアンに持ちかけたのが、「公共物としての体」を取り戻すための自殺である。そして、御冷ミァハは死んだ、はずだった。トァンとキアンは生き残った。

 大人になった霧慧トァンは世界同時自殺事件の捜査を担当する世界保健機構の螺旋監察官として、御冷ミァハと対峙することになる。世界同時自殺事件では、六千五百人以上の人間が実に様々な方法で自ら命を絶った。これは警告だった。今や全世界WatchMeに繋がれた人々が人質に取られている。そして、犯人グループは「一週間以内に誰かひとり以上を殺すこと、それができなければあなたの命を奪う」と要求してきた。

 これに対する対処法としては以下の三つが挙げられている。

 誰かを殺して生き延びるか/誰も殺さずに死ぬか/或いは犯人の主張そのものを信じないか

 犯人グループがボタン一つで多くの人間を自死に追いやることができる以上、選択肢は前の二つに絞られる。ここに『ハーモニー』という小説世界で奪われていたものが露になる。すなわち、生きることと殺すことは同義であるという事実である。

 しかし、伊藤計劃はさらに先に進もうとする。この混乱の首謀者がWatchMeの開発者で父である霧慧ヌァザによって救われ、行動を共にしていた御冷ミァハであったことを突き止めた霧慧トァンはついにチェチェンの山岳地帯で旧友と再会することになる。御冷ミァハの目的はかつての大災禍のような混乱を引き起こすことにより、WatchMeを通じて人間の身体監視だけでなく、意識そのものを奪うことだった。かつての大災禍のような虐殺が起こる前に、権限をもつ〈次世代ヒト行動特性記述ワーキンググループ〉の老人たちがヒトの脳から意識を奪うボタンを押すだろうと考えたという。

「『わたしはわたしである』という鏡写しの意識こそが人間の尊厳だっていう主流派」と「完成されたシステムのなかで人間の脳だけが取り残されている、意識なんか不幸になるだけ、さっさとうっちゃるべきだっていう異端」

 かつてシステムに自身を奪われまいとして自殺を企てた少女は、方向を大きく転換し、システムに適合せず苦しむ人がいるなら、その苦しみの元である意識を消し去ろうとしたのである。大きなものとの合一による個の喪失で新世界を作り出すという発想はSFにはあるものらしく(宗教だってそうだが)、今思いつくのは、グレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』、アニメ『新世紀エバンゲリオン』もそうだ。もっと言うなら、ゾンビと戦うのが人間なのか、それともさっさとゾンビになっちゃいな、そのほうが楽だぜということなのか。

 どうしても二者択一的な発想になってしまうのだが、『ハーモニー』には第三の選択肢もさりげなく提示されていた。WHOの螺旋監察官の職に就き、健康に関する事案の監視という職業にもかかわらず、WatchMeを無効化するアプリをインストールし、世界各地の紛争地帯で、超健康社会が禁じた酒やタバコをやる霧慧トァンの生き方である。霧慧トァンのような隙間に生きる人物がいなければ、物語は完成しない。彼女が『ハーモニー』の語り手であるのは、当然のことであり、同時にテクストがetml1.2で定義されている意味も最後に明かされる。物語の内容とは別に、霧慧トァンが父、そしてかつての親友との対峙という古典的行動原理を持っていなければ、この物語は小説ではなく、哲学書になっていただろう。彼女の行動原理が「意識」なのだとしたら、そして「生きる」ということだとしたら、そういうものがきれいに消滅した意識の果てというのは、おなかに大きな空洞ができたような感じがするな。

旅をする魂 澁澤龍彦『高丘親王航海記』

 

(ネタバレ)高丘親王は実在の人物である。平安時代の初期に平城天皇の第三皇子として生まれた。のちに出家し空海に弟子入りした。還暦を過ぎて仏法を究めるため、唐に渡り、さらに天竺を目指し、消息を絶った。

 澁澤龍彦の遺作『高丘親王航海記』は親王が広州の港を出航するところから始まり、羅越国(シンガポール付近)で亡くなるまでを描いているので、小説の枠組みはおおむね史実に沿っている。しかし、史実に沿っているのは枠組みだけで、高丘親王と三人の従者の旅路は夢と奇想に溢れた幻想譚である。

 そもそもなぜ親王は天竺を目指すのか。「仏法を究めるため」というのは、ちょうどこの小説が史実を枠組みとしているようなもので、親王の心にはまだ見ぬ地への純粋なあこがれがあった。そして、その「天竺」へのあこがれは親王が幼いころ父平城帝の寵愛を受けていた藤原薬子との思い出から来ている。添寝をしながら薬子が口にする「天竺」ということばは、未分化な性愛の記憶に重なり、親王の心の奥深くに残った。あこがれが「天竺」という仮の姿を持ったもので、それ以上説明のつかないものである。

『高丘親王航海記』は、純粋な未知のものへのあこがれを刺激し、本を読むというただそれだけの愉しみを思い出させてくれた。ぼくは自然に「魂」ということばを思い浮かべた。その「魂」は高丘親王という唯一無二の人物を得て、作中に旅する魂として立ち現れたのだった。

 親王一行の行く手には、奇妙な動植物が次々と現れる。真臘(カンボジャ)では下半身が鳥の姿をした女、アラカン国では犬頭人スマトラ島のスリウィジャヤでは人の汁を吸ってたちまちミイラにしてしまうという巨大な人食い花といった具合。中でも出帆してすぐ南海で出会った儒艮(ジュゴン)は従者の一人秋丸に教えられ、ことばを話すようになり、一行の旅についてくる。

 こうした奇想に満ちた世界、それは夢の世界である。親王は夢見の達人であり、親王は実にしばしば眠り込み、夢を見る。章がまるごと親王の夢であったという設定さえあるが、これは作中に奇想を導き入れるための手段ではない。むしろ夢を書くことが『高丘親王航海記』の主題であったと思われる。このように考えるのは西郷信綱の『古代人と夢』にある夢は魂の通い路であり、「私は魂の保管所」だというのを思い出したからである。

 高丘親王が「天竺」を目指すとき、そこには幼少期における薬子への想いがあったことは、薬子の次のようなイメージがくりかえし現れることでもわかる。

「薬子はつと立ちあがって、枕もとの御厨子棚から何か光るものを手にとるや、それを暗い庭に向かってほうり投げて、うたうように、

『そうれ、天竺まで飛んでゆけ』

その不思議なふるまいに、親王は好奇心いっぱいの目を輝かせて、

『なに、なにを投げたの。ねえ、教えて。』」

 薬子はこのとき投げたものを、「わたしの未生の卵」と呼び、「天竺まで飛んでいって、森の中で五十年ばかり月の光にあたためられると、その中からわたしが鳥になって生まれてくるのです」と言う。

 薬子や師空海に再び出会うことが高丘親王の旅に秘められた目的だったとすれば、すでに他界した彼らに出会うためには、どうしても魂は保管所から抜け出し、夢という回路を利用するしかない。『高丘親王航海記』が与える不思議な印象、目的地を目指すことが自己を遡及することと同義であるような旅は親王の魂が夢の旅路を通っているからにほかならない。

 果たして親王は旅の目的を達したのだろうか。それには、旅をする魂に追いすがろうとする死について言及する必要がある。一行の旅についてきていた儒艮はこんなことを言い残して死んでいく。

「とても楽しかった。でもようやくそれが言えたのは死ぬときだった。おれはことばといっしょに死ぬよ」

 本作執筆当時、病床にあった澁澤龍彦が死を意識していたことはまちがいないだろう。儒艮の死が描かれるのは第一章「儒艮」。「ことばといっしょに死ぬ」というのは、作家の意識が反映しているように見えないこともないが、ぼくは取らない。大事なのはそのあと「たとえいのち尽きるとも、儒艮の魂気がこのまま絶えるということはない」。この旅路にことばはいらない、と言っているように思えるのだ。夢を通う魂の旅路にことばは不要。第一章でそれを儒艮に持って行ってもらった、そう読めないだろうか。

 親王は旅に病を得て、物語は次第に死の影が色濃くなっていく。親王スマトラ島のスリウィジャヤで親王と再会したパタリヤ・パタタ姫と次のような会話を交わす。

「ねえ、ミーコはほんとうに、死んでもよいから天竺へわたりたいと考えていらっしゃいますの」

「もちろんですとも。渡天はわたしのいのちを賭けた大業ですから、死ぬことは少しも厭いませぬ」

「すると、天竺へついてから死なれても、死なれてから天竺へおつきになっても、結果的にはそれほど変わりませんわね」

 果たして親王が選んだ方法は自身の体を虎に食わせて、魂が天竺への旅を続けるというものだった。魂がその保管所から抜け出す手段として、これ以上のものがあるだろうか。高丘親王の旅は続く。死を意識した作家の矜持もここに現れている。

死者の自律性 いとうせいこう『想像ラジオ』

 

 2011年3月11日に起こった東日本大震災は東北を中心に未曽有の被害をもたらした。今考えるとあの地震を境に日本は大きく変わった。直接災害に見舞われなかった日本人もひどく精神的ダメージを受け、その影響は現在に至るまで続いている。変化を恐れ、不都合な現実に目を背けるようになった。その結果が当時の民主党政権の後を受けて誕生した安倍政権だ。史上最悪と言っていい安倍政権が2012年12月から8年以上も続いたのは、テレビをはじめとする大手メディアがいかにも安倍政権が仕事をしているように見せかける聞こえのいい報道ばかりしていたせいだ。しかし、視聴者はそんなものは嘘だとわかっていたと思う。嘘だとわかっていながら、その嘘を信じ込もうとしていた。

 震災についてはもう一つ苦い思い出がある。教師をしている僕はあの日学期末の最終日を終え、翌日から春休みを控え、気持ちが軽くなっていた。地震のニュースは教員室で見た。見たものが信じられなかった。ただただ怖くて、地震のニュースをきちんと受け止めることができなかった。夕方当時の彼女に電話をかけ、明日から春休みが始まるという話をしたと思う。彼女は一言「遠いね」と言って電話を切った。

 僕は何の話をしているのかというと、いとうせいこうの『想像ラジオ』のことだ。

 「こんばんは。

 あるいはおはよう。

 もしくはこんにちは。

 想像ラジオです。

 こういうある種アイマイな挨拶から始まるのも、この番組は昼夜を問わずあなたの想像力の中だけでオンエアされているからで…」

 DJアークと名乗る男がどこかで始めた「あなたの想像力の中だけでオンエアされている」ラジオ放送、それは死者からの声だ。その声が聞こえる人もいれば、聞こえない人もいる。聞こえないことを気に病む人もいれば、そんなうわさをすること自体不謹慎だという人もいる。これはかなり難しい問題だ。部外者が知りもしないで口出しするなという批判はいかにもありそうなものだ。震災で多くの人が亡くなった。小説では東京大空襲や広島の原爆にも言及がある。いずれも多くの人が殺された。その死者は誰のものなのか。近親者か、被災地の方々か、それとも日本という国の同胞たちか。そんな問いに答えはない。

 小川洋子ナチスユダヤ人虐殺をテーマにした小説を書いている。以前、なぜ日本人である小川洋子がそんなテーマで小説を書くのか、そこに内的必然性はあるのかというようなことを言ったら、ぜんぜんおかしくないと反論されたことがある。今では僕自身も全く違和感はない。しかし、他人に口出しされたくないという発想やこの問題に関して〇〇は部外者だといった偏見がだれかの心の中にあってもふしぎではない。

 いとうせいこうの『想像ラジオ』が問うているのは、「死者はだれのものか」という問いそのものの無効性だ。なぜなら語っているのは死者なのだから。様々な状況下で命を落とした人々には言いたいことがたくさんある。大事なことは、それは生者の事情とは関係ないということだ。たぶんみんないっぱいしゃべってる。死者は死者の自律性をもってそれを行っているのだ。

 作中、Sさんと呼ばれる作家は書くことによって亡くなったかつての恋人と会話を交わす。『想像ラジオ』はこの会話に第四章まるまる一章分を割いている。重要なパートであることは間違いないが、そのSさんにはDJアークの声は聞こえない。それは亡くなった恋人との会話を書くことによって想像することと、DJアークのラジオ放送は別次元にあることを示している。

 アニメ『この世界の片隅に』はいろいろショックを受けた映画だが、実は一番ショックを受けたのはエンドロールだ。爆弾により失われたすずさんの右腕がそれ自体一個の生き物のように生き生きと動き回り、絵を描いている。ああ、すずさんの右腕は死者となって、すずさんとは関係なく自律性を獲得し、今第二の生を送っているのだと思った。それはとても楽しげだった。

 矛盾した言い方をするようだが、すずさんの右腕もDJアークのラジオ放送も同じ死者の生だと考える。それを感じることができるかどうか、そんなことは些末なことであって、それを信じることができるかどうか、そして、その自律性を尊重することから、何かからの回復がありうるのだと思う。そういい意味で、僕はこの10年、あまりにも臆病で、想像力に欠け、狭量な10年を生きてきた。

ゆがんだ遠近法 多和田葉子『献灯使』

 

 未曽有の災厄後の世界を描いた小説は数多い。災厄後の激変した日本を描く多和田葉子の『献灯使』も広い意味ではディストピアものなのだが、SF小説的な終末観とは異なる印象を受けた。

 百歳を超えてかくしゃくとした老人義郎とひ孫の無名は仮設住宅で二人暮らし。無名は体が弱く、自分で服を着ることも、歩くこともままならない。無名の身の回りの世話は義郎がしている。しかし、無名は自分のひ弱さを悲観することはない。無名に栄養をつけさせてやろうと義郎が買ってきた蓼がまずくて、義郎が謝ると無名は言う。「まずいとか、美味しいとかあんまり気にしないんだ、僕たち」ジュースを飲みこむことができず、激しく咳き込んだ無名に義郎は「大丈夫か、苦しいか」と問いかけるが、無名はきょとんとしている。

「無名には『苦しむ』という言葉の意味が理解できないようで、咳が出れば咳をし、食べ物が食道を上昇してくれば吐くというだけだった。もちろん痛みはあるが、それは義郎が知っているような『なぜ自分だけがこんなにつらい思いをしなければならないのか』という泣き言を伴わない純粋な痛みだった」

「僕たち」という言葉には注目していいだろう。無名世代は義郎たち百歳を超えた老人世代が自明としてきた価値観を共有しておらず、災厄によってもたらされた結果をあたかも自然現象であるかのように特別な感情を伴わず受容することができるのだった。

 義郎と無名が暮らす世界はかつての日本と大きく異なっており、自動車もインターネットもなく、外来語の使用は禁じられている。どうやら日本は鎖国状態にあるらしい。統治機構が小説内に登場することはなく、その実態は不明だが、義郎をはじめ、作中人物たちが統治機構を相当恐れていることは、作家である義郎が自作の歴史小説に多数の外国の地名を使ってしまったことに気づき、「身の安全のために」その小説を破棄せざるを得なかったという事実からも明らかである。

 僕は『献灯使』という小説を読んでかなり奇妙な感じを受けた。この作品には奇妙な歪みのようなもの、読むものをすんなりと小説世界に入らせないようにする仕掛けがあるように感じるのだ。

 一つは言葉遊びの頻出。例を挙げると、走ったら体重が落ちるからジョギングを「駆け落ち」というとか、英語を知らない若い世代は「made in Japan」の代わりに「日本まで」を使うなどだ。

 二つ目は人が動物になぞらえて表現されることがしばしばあること。「昔は軟体動物なんて馬鹿にしていたけど、もしかしたら、人類は誰も予想もしていなかった方向に進化しつつあって、たとえば、蛸なんかに近づいているのかもしれない。曾孫を見ていてそう思います」あるいは、歯科医が無名に牛乳は好きかと尋ねるくだり。無名が「ミミズのほうが好きです」と答えると、歯科医師は平然として「そうか、それじゃ君は子牛ではなく、ひな鳥だな。子牛はお母さん牛のお乳を飲んで育つが、鳥の雛は親鳥がとってきてくれたミミズを食べて育つ」

 三つめは中心の喪失である。義郎と無名が暮らしているのは「東京西域」と呼ばれる地域。文庫解説のロバート・キャンベルはこの地域を「市外局番が『〇三』から三桁以上に増える武蔵野市以西、奥多摩あたりまでを言うのだろうか」と推測している。この世界で栄えているのは農業の盛んな沖縄、四国、北海道で本州から多くの移住者がいる。一方でかつて政治経済の中心であった東京はいまや廃墟であるらしい。この世界がどのように統治されているのかも、詳細は不明で、わかるのは鎖国や外来語の禁止といった内向きの政策がとられているということぐらい。

『献灯使』という小説には小説世界の全体像を見渡す俯瞰的視点が欠けており、どういった仕組みで世の中が動いているのかがわからない。その一方で義郎と無名の生活の衣食住にまつわる事柄は事細かに描写されるのである。言葉は次第に意味をはぎとられていき、人は鳥や虫になり、近代的認知の自明である遠近法は子供の絵のようにゆがめられている。

 多和田葉子が作り上げたのは、ゆがんだ遠近法の世界。小説世界そのものが読者の目から見て異物であるような世界なのかもしれない。感情移入も消費もできない。できるのは変わり果てた世界を固唾をのんで見守るだけ。しかし、外部を失った世界というのは多和田葉子の描く小説世界の日本だけなのだろうか。むしろここに描かれているのは歪みをともなった日本という国の自画像そのものではないか。だからこそ、僕は無名の静かな、しかし、勇気ある決断に希望と動揺を感じたのだと思う。